11月14日(火)にアップした連載コラム「つたえること・つたわるもの」№172をお届けします。https://gomuhouchi.com/serialization/54695/
「認知症の患者」ではない、「認知症の人」との超コミュニケーション。
今回のコラムは、冒頭に『縛らない看護――「抑制」をしない、そこから「看護」がはじまる』(吉岡充・田中とも江編著、医学書院、1999年)の編著者のひとり、田中とも江さんの「序章 縛られているのは誰か」(抜き書き)と、医学書院発行の『医学界新聞』連載コラム『再考「身体拘束」』(聖路加国際大学名誉教授・井部俊子さん)の一部を紹介しながら、アメリカのソーシャルワーカー、ナオミ・フェイルの著書『バリデーション』に収載されている「バリデーションセラピー(超コミュニケーション法)」のことを、かつて『トランネット通信』に寄稿した『医学的「認知症」の時代から、考える「認知症ケア」の時代へ』(連載コラム「編集長の目」№133)の一部を参考にしながら、「認知症の患者(病者として扱われる人)」ではない、「認知症の人(その人の人生を生きている人)」との超コミュニケーション法について書きました。 それは、たとえば、「私は、「あなたは縛られたいか」「あなたの親ならどうであるか」「あなたの子どもたちであればどうか」と問いつづけた、田中さんの看護のベクトル(目線)であり、あるいは、井部さんが『再考「身体拘束」』に書いた「身体拘束をしないことは目標(アプローチA)なのか、結果(アプローチB)なのか」を考える前に、私たちは、まず、「身体拘束(縛られる)」の対象とされる「認知症の人」は「何をしたい(されたい)のか」「何をしたく(されたく)ないのか」について、また、もうひとつ、「認知症の患者」ではない、「認知症の人」について、その「本当」の姿を「正しく」理解しなくてはならない、と考えたからです。 そして、『バリデーション』の中で、ナオミ・フェイルが、認知症の母親マーガレットと娘モリーに行った「バリデーションセラピー」のひとつ、「マーガレットのケース」は、認知症に対するナオミ・フェイルの仮説――お年寄りの混乱した行動の裏には、必ず理由がある――をみごとに実証した、感動的なエピソードです。
詳細は☞ ダウンロード -172.pdf
次回のコラム№173も引き続き、「バリデーション」をテーマに書いていきます。
お時間のあるときに、お読みください。
☆原山建郎☆
Comments