「生老病死」の問題は「お寺から病院に移っている」。かつて高野山大学名誉教授の静慈圓伝燈大阿闍梨は指摘した。心の問題の専門家がその職責を持て余し、科学の領域にバトンタッチしたかっこうである。「生老病死」は精神世界にとってもお荷物になったということだろう。ところが、科学の罠と医療制度によってがんじがらめになっている病院も「生老病死」に正面から向き合わない。病苦に悩み死に瀕した高齢者や病人とその家族は戸惑い、時として怒りを爆発させる。医師や看護師など医療と介護の現場に携わる者も病人を抱える家族も、死に逝く人に向き合うことが困難な時代になってしまったのだ。これを末世とか不条理の世界とかいうのだろう。
末法の世を捨て置けぬとみたのか。高野山大学と高野山真言宗が医学・医療・心理学・哲学・宗教・文学の知識人に呼びかけ、「21世紀高野山医療フォーラムを立ち上げた」のは2005年のことである。11年に及ぶ講演会の記録『「生と死」の21世紀宣言』(青海社)の中からも生と死の核心を平易に突いた講話18編を抜粋してまとめた本が出た。柳田邦男編『最後まで生きるために』(上・下、各1800円・青海社)である。
こんな話が載っている。国立がんセンター名誉総長の垣添忠生氏が、末期がんの妻を自宅で看取った。氏は、たった一人で医師、看護師、介護士の三役を引き受け、暮れの12月28日に最愛の妻を看取った(「妻を看取る日」上巻)。高木訷元・高野山大学名誉教授(元日本学術会議会員)は、妻の延命治療の仕方をめぐって医師と衝突した顛末を赤裸々に描く(「科学技術文明における死生観」同)。それぞれの専門分野で指導的な地位にある人物が、そこまで追いつめられたとは、いったいなにを意味するのだろうか。精神分析学者の河合隼雄氏は、医学を人間社会に適用させることが限界に達しているとし、医療にたいする通念を改め、「科学の知と神話の知の統合」を求めた(「命の不思議」同)。
ほかに細谷亮太氏の「少子化の中の子どもの死を通して、この国のこれからを考える」(上巻)、高木慶子氏の「悲しみは真の人生のはじまり」(下巻)、玄侑宗久氏「相補性で命を考える」(同)など、学域や宗派を超えて「生老病死」を見つめ直す講話が並ぶ。医師兼経営者である永田良一氏の「誰もが苦悩、苦痛から解放されるために――医療の最先端事業で社会に貢献」(同)といったビジネス絡みの話も織り込んである。「現代」を見つめ直すヒントを見出すことができる一冊である。
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