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玲子と「はあちゃん」の物語

 原山建郎の連載コラムが更新されました。


 コラムでは9月22・23日/10月23・24日(瀬戸内さんの原稿受領、画家・小磯良平さんの挿し絵受領)の記述&日誌には書かなかったエピソード。10月17・19・20日(同じころ、やはり『主婦の友』に連載されていた、遠藤周作さんの小説『うちの女房・うちの息子』の挿絵(画家の宮田武彦さん)を取りに行ったこと&瀬戸内さんの原稿取り)記述を紹介しながら、長尾玲子さんが近著のメインテーマとした【「瀬戸内晴美は、なぜ51歳で出家し、寂聴になる道を選んだのか」】について考えました。そして、瀬戸内さんと遠藤さんはお互いをよく理解し合った間柄であったこと。瀬戸内さんの出家得度にあったって、遠藤さんからは道服(※1996年10月2日、遠藤さんの葬儀ミサに参列した寂聴さんは、この道服を着用した)が、順子夫人からは観音経の写経が贈られたことにふれながら、仏教(天台宗)とキリスト教(カトリック)を柱とされえおられたお二人の作家としての生き方にみられる共通のミッションを強く感じました。 ★「はあちゃん(※長尾家では瀬戸内晴美さんをこう呼んでいた)」こと瀬戸内晴美さんは、51歳のとき、中尊寺で受けた「出家得度」を介して、瀬戸内寂聴(寂聴尼)という「彼岸」を、99歳まで生きる作家となった。 ★遠藤周作さんは12歳のとき(1935年6月23日)、カトリック夙川教会で受けた「洗礼」により「パウロ」という洗礼名を授かったことから、73歳で帰天するその日まで、「私が神を棄てようと思っても、神が私を棄ててくれない」というテーマを終生追い求める作家となった コラムには書きませんでしたが、私が新前記者になりたて(22歳)のときに書いた業務「日誌」は、もちろん手許に残してあったことも含めて、あれから54年、現在の私にあてた「手紙」であったのではないか、そんな気がします。

お時間のあるときにお読みください。 

    ☆原山建郎☆

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