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「死にそうな時は何にもしなくていい」と言われてたのに

 メッセンジャーナースの活動の紹介です。医療総合媒体の日経メディカルで、連載「患者と医師の認識ギャップ考」を展開していました。日経BPの了承が得られましたので、シリーズで掲載していきます。


 今回で第10回目となります。松本理恵子さん(メッセンジャーナース・日本在宅看護システム社)の記事で、テーマは『「死にそうな時は何にもしなくていい」と言われてたのに』です(ご略歴などは執筆当時のものです。ご了承ください)。



「死にそうな時は何にもしなくていい」と言われてたのに


松本理恵子(メッセンジャーナース・日本在宅看護システム社)

2017/01/16


 私の祖父は、昨年の6月1日、享年95歳で亡くなりました。生前より、「じーちゃんが死にそうな時は、何にもしなくていいからね。もう、何にもしなくていんだよ」と話していました。


 祖父は、3歳で母を病で亡くし、15歳から徴兵で戦争に行きました。戦後、4人の子供に恵まれましたが、待望の長男、次女を病で亡くしています。私が、辛いときは祖父の生きてきた年代を自分に置き換えて励みにして生きてきました。


 おじいちゃんの口癖は、「今はいい世の中だよ。俺は幸せだ、こんなに可愛い孫やひ孫に囲まれて幸せだ」でした。いつも穏やかで、ユニークで、明るくて笑顔が素敵なおじいちゃんでした。無条件な愛に包まれた私は、「生まれてきてくれてありがとう」と言われて育ちました。お酒に酔うと、辛かった戦地のことを聞かせてくれました。90歳を過ぎても、畑仕事を生きがいにして、大きな野菜や甘い果物を孫たちのために作っていました。


 主人の転勤で4年前に新潟を離れる時には、いつもより力強い握手を交わし、いつものように私たちの姿が見えなくなるまで手を振ってくれました。「もう、おじいちゃんの死に目には会えないかも」。互いに言葉には表さない胸の奥が痛くなるくらいの悲しみに襲われました。「ありがとう。おじいちゃんの人生史が私の励みです」と心の中で繰り返し思うだけ、の静かなお別れをしたことを思い出します。


 去年の4月、主人の転勤で新潟に戻りました。おじいちゃんとの嬉しい再会でした。少しやせていて、風邪を繰り返していると話していましたが、「よく来た、よく来た」と満面の笑みで迎えてくれました。


 大好きな野菜・果物作りに精を出していました。でも昨年の2月くらいに、食事量も水分も少なくなり、横になることが多くなりました。介護者である88歳の祖母(要介護度3です)、叔父、母は、何もしないわけにはいかないと、近医に受診させ点滴通いをしていました。少し良くなると畑に出てしまうし、主治医は、持病はあるが異常所見なしの診断で介護認定は受けられずにいました。


 私は母に、「もう、そろそろかもね、おじいちゃんに無理にごはんを食べさせたり飲ませたり、点滴とかしない方がいいよ。気のみ、気のまま過ごすのがいいと思うよ。その方が苦しまないような気がする」と何度も話しました。でも、介護者は見ていられないといって、近医に定期的に点滴に通わせていました。


 4月の中旬には、ベッドでの生活が多くなりました。尿毒症状夜間頻尿があり、身もだえるような倦怠感を訴えていました。介護者の、夜間の介護疲れが限界に達し、介護認定の申請がようやくできることになりました。申請調査訪問2週間後、申請から2カ月後の認定と言われました。申請調査訪問日まで待てず、近医に相談して自宅から30キロ離れたさらに田舎の病院入院させることになりました。5月のはじめごろでした。


 入院してからすぐに、私は叔父に「おじいちゃん、あと10日くらいだと思うの、もうすぐだから何とか自宅で看取れないかな?」と話しました。叔父さんは、「いやいや、おれの予想ではあと半年以上だ、もうだれも看ることはできない。これからが長い。施設に入れようかと思っている」と言われました。母も祖母も「もう一生懸命看病した」と言うし、介護に疲弊していて聞き入れない状態でした。


 「おじいちゃん、生きている時にたくさん苦労したから苦しませたくないの、おじいちゃんの思うように死なせてあげたいの」と言ったのですが、母は「じいちゃんが死んだ後、色々言われると悪いから、叔父さんの言うとおりにしてよ」と言うのです。


 祖母は、「もう頑張って看病した、家から出るときお別れしたから」と言うし、どうしようと思っているうちに、おじいちゃんの治療が始まったのでした。私は、入院したおじいちゃんのお見舞いに足が遠のきました。


 祖父の入院生活は2週間でした。その間、輸血、点滴メイン側管から2つの輸液ポンプを使った持続点滴が行われました。遠方から来る家族も含め、全員が面会を終えたので、叔父と母の意見で、セデーションを施していただいて亡くなりました。


 その後、祖父が残したメモが出てきました(写真)。



「看護師の資格」はただの飾りだったのか


 私は、葬儀を終えた後に見せてもらいました。祖父が亡くなった悲しみと、私の「看護師の資格」はただの飾りだったと実感しました。母は怒っていました。「家に帰りたいなら、何とかして帰してあげたかった。今更、あんなメモ出してきて」。


 叔父は、「こんなに早く逝くなんて思ってなかった、誰かが教えてくれればどうにかできたのに。60年間仏がない家だったから分からなかった」。「私、言ったよね…。もう長くないって」。叔父は、無言でその場を立ち去りました。


 そして、半年たった今、母とあのころを振り返りました。母にあの時、看護師である私に、どうして欲しかったのか聞きました。


 母は私に「みんなに分かるように、納得させるような説明をして欲しかった。身内の助言は、軽々しく聞こえた。全員を集めて面と向かって話して欲しかった。ひとり一人の要望を聞いて、まとめて医師に伝えて欲しかった。医師の説明を一緒に聞いて欲しかった。あなたの話し方は、全然響かなかった」と話しました。母は終末期を迎える患者・家族にとって、メッセンジャーナースの役割と必要性を的確にズバリと言ってくれました。私は、正直驚いています。


 あの時、おじいちゃんの隣にメッセンジャーナースがいたら、おじいちゃんと介護者、介護者と医師の懸け橋となって最期を一緒に考えてくれたでしょう。介護者の疲弊状態を把握してレスパイト入院を勧め、病状をみて在宅療養に戻ることができたでしょう。


 苦労を重ねたおじいちゃん、愛情をたくさんくれたおじいちゃんの最期を苦しませずに、おじいちゃんの大好きな家で、おじいちゃんが育てた花に囲まれた庭・広大な畑・山と空の遠くの景色、おじいちゃんの思い出が詰まった家で、妻、子供、孫、ひ孫の「おじいちゃん生きていてくれて、ありがとう」の声を聞きながら、幸せな気持ちで旅立つことができたはず。そして、見送る側の家族もおじいちゃんの最期が温かい思い出となって、生きるエネルギーとなり生命のバトンを受け継ぎ、今後の人生の強い指標となり歩めたでしょう。残された家族・親族・幼い頃、たくさん遊んだ従妹同士の絆も深まり、おじいちゃんの愛情で育てられた同じ思い出を改めて胸に刻むことができたでしょう。


 祖父の墓前に行く足が未だに遠のいています。祖父は何でも許してくれる人だったから、「いんだよ、いんだよ」と、あの世で言っていることでしょう。おじいちゃんがそう言っていても、私は何かを成し遂げないと進めないような気持になっています。


 おじいちゃんが私に最後に教えてくれたことは、メッセンジャーナースの必要性でした。私は、メッセンジャーナースの称号を飾りにはしない、そう誓いました。


■著者紹介

松本理恵子(まつもと りえこ)

一般企業で6年間バレーボールに熱中した後、看護師となり、 臨床看護。育児を経て訪問看護に携わり、深い学びを得ました。メッセンジャーナースの認定取得を機に、現在は、日本在宅看護システム有限会社のラーニングスタッフとして、在宅看護の「心と技の融合」を目指し、自問自答しながら精進しています。


日経メディカル Online 2017年1月16日掲載

日経BPの了承を得て掲載しています

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