「中心をはずさない」
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原山建郎氏の新作『遠藤周作の「病い」と「神さま」』の番外編です。

先日、『遠藤周作の「病い」と「神さま」』の原稿をお送りした関西在住の医師(耳鼻咽喉科)から、メールで以下のコメントをいただきました。
「いつも ありがとうございます。
文章に 風景を感じ とてもあたたかい気持ちになります。
Family - centered Care / Patient and Family - centered Care などといわれますが
患者さま ご家族 地域 コミュニティなどを含む ケアこそが 求められていると思います。」
メールに書かれていた「centered Care」から、「中心をはずさないケア」を連想しました。私のコラム用メモ、「中心をはずさない」をお届けします。
原山建郎
「中心をはずさない」
ユング心理学の泰斗で、心理カウンセラーの河合隼雄さんは、『こころの天気図』(三笠書房・知的生き方文庫、1994年)の第七章で、「中心をはずさず、ずっとそばにいる」、「ここぞという時、逃げない」と書いています。
●中心をはずさず、ずっとそばにいる
分裂病の心理療法家として名高いジョン・ウィアー・ベリーという人がいますが、その人がこう言っていました。どんな患者さんに対しても、それを鎮めようとか治そうとかするのではなく、こちらが「自らの中心をはずすことなく、ずっとそばにいる」というのをやり続けると、収まってくる、と。
「自らの中心をはずすことなく、ずっとそばにいる」…… これはカウンセリングにも言えることで、最高の方法ですね。言語を絶するほど難しい。そしてエネルギーのいることですが。
ある剣道の名人に聞いたのですが、日本には「中墨をとる」ということばがあるそうです。大工さんが持っている墨入れの道具があるでしょう? 板などに線を引く時、そこから墨のついた糸を引っ張り出して、板の上に張り、ピンッと糸をはじく。それを中墨をとるというそうなんですが、その言葉が剣道の世界で使われているんだそうです。
刀をね、その中墨をとる感じでかまえて対する …… いわゆる中心でかまえるんですね。
それがまた、なかなか出来ないんだそうです。
ペリーさんの言う「中心をはずさず」というのは、この極意と共通するのではないかと思うのですが、名人でも難しいのだから、とてもとても(笑)。
「中心」というのは、自分の中心でもあるし、相手の中心とも言える。体の中心、心の中心としても捉えられる。さらには、その場の中心や、大きく言えば宇宙の中心というのもイメージできる。
単純に説明できるものではないと思いますが、人と会う時、中心に関するファンタジーと
いうか、イマジネーションを働かせてみるのは大事じゃないかと思います。
●ここぞという時、逃げない
中心からはずれないでいることが難しいということは、つまり、いかに我々が中心からはずれやすいかということです。
たとえば、(あの人を自分のちからで助けてあげよう)なんて思ったら、もう、ちょっと中心からはずれている。(あ、この人は、こんな相談までして …… 私をここまで信頼してくれているな)という思い方も、自分が嬉しくなってしまっている分だけ、はずれ(笑)。
そして、この「中心からはずれたな」という感じのほうは、案外自分でわかるんですね。相談を受けてて、問題が込み入ったりした時、(あ、今私は相手から逃げたな)なんて感じる時があるでしょう? そんな時は、たいてい相手も(こいつ、今逃げたな!)なんて感じているものです。
それは、いくら隠したって相手にピタッとわかる。また、それがありがたいことですね。
お互い通じる部分があるということだから。
だから、「ここぞという時、逃げない」という言い方で「中心をはずさない」ということを言いあらわすことが出来ると思います。
(あ、自分は今逃げたな)と感じた時は、もうすでに逃げちゃってるわけだから、しょうがない。でも、その「逃げた」ということを意識しておいて、次の機会に、それを取り上げるわけですね。
「さっき、私が逃げたように思ったんじゃない」とか、「あの時ふっと、『逃げたな』と感じたでしょう」とかね。そして、相手が「うん」と言ったら、「私もついつい、あかんと思いながらも、逃げてしまった」などと、ちゃんと言う。すると。すっとまた中心に入る。関係が「まっすぐ」に戻るんです。そうするとまた、話し合えるようになる。
●相手があって初めて、自分のことがわかる
我々は名人じゃないんだから、しょっちゅう逃げたりはずれたりしているのだけれど、それをごまかさずに、ちゃんと言語化することで、中心に戻れる。はずれた時にどうするのかという方法を、自分なりにたくさん知っておくことでしょうね。
また、自分が中心をはずしたような時は、相手が他の話をしたり、退屈したりします(笑)。これは、見分ける良い方法ですね。
そんな時、「あんた、ちゃんと聞きなさいよ」なんて言うんじゃなくて、「あんた、今私と、どこかしっくりきてないんじゃない?」などと、ちゃんと聞く。すると、それがきっかけになって、またすっと戻ったりします。
子どもがダダをこねたりすると、もうその泣き声や暴れぶりにパニックになって、中心なんか、どっかにふっとんじゃう、なんてこと、よくあるでしょう。しかし、そんな時も、(ほんとうにもう、ダダをこねてしょうがない子だ)とか(イヤな子だなあ)と思うんじゃなくて、(私がまだ、中心がわからないから、この子もダダをこねたくもなるんだろうなあ)と思っていると、その子への気の向け方が、ぜんぜん違ってくるものです。
そういうふうに、こっちの態度や気持ちが変わってくると、ほんの少し余裕が出来るんですね。そうすると巻き込まれることも少なくなり、子どもも敏感にその気配を感じて落ち着いてきます。子どものダダに巻き込まれてエスカレートしていったら、もう最後は怒鳴るか蹴飛ばすしかなくなるでしょう(笑)。
相手をしっかりみる、相手のことをしっかり聞くという態度は、そのまま自分の内部にあるものを、しっかりみる、しっかり聞くということに結びついてきます。自分もそれで鍛えられるんです。
(『こころの天気図』「相談する 相談される」203~207ページ)
「中心」ということばの類語には、重心、垂心、求心など、からだ(ものごと)の心(芯)にかかわりながら、からだ(ものごと)の軸(正中)に統合され、下方(中心に向かって)に引き込まれてゆく動きを示すことばがあります。
野口体操で有名な野口三千三さん(東京芸術大学名誉教授)が、「思ひは、重(おも)から発生した」と言っています。
この「中心」ということばも、頭(ブレイン)や胸(ハート)で考えるのではなくて、「からだ」語としてのからだの中心がとらえられたら、いいなと思うのです。
「からだ」語といえば、「からだを動かす」というときの「動」は、「重+力」で成り立っています。重力は英語で weight (the quality that makes all things tend toward the center of the earth) 、無重力はweight-less といいます。
「動(うご)く」ためには「重さ」が必要です。宇宙空間(スペースシャトル内)では浮いた状態で、動くというより慣性の法則で移動します。重力(1G)のある地表を歩くには、ある程度の体重と地面の摩擦(抵抗)があって初めて成り立ちます。体重がないと足を前に出せず、地表に摩擦がないと滑ってばかりで前進できません。平地を歩くときも、階段を昇り降りするときも同様です。
私は、自己流で「からだ語」としての「やまとことば(言霊)」を学んでいます。いろいろな資料も集めています。
たとえば「歌(うた)ふ」が「うった(訴)ふ」、つまり、どうしても相手に訴えたい、伝えずにはいられない気持ちが溢れ出て「(思わず)大声で叫んだ」のが、「歌ふ(う)」のルーツだというのが「やまとことば」の考え方です。

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