健康ジャーナリスト 原山建郎氏の連載コラム「つたえること・つたわるもの」№186が公開されました。
★病いる(病いを生き切る)、〈道しるべ〉を立てる、〈救死〉という視点も必要である。
先月18日、「死の受容」研究会(第12回定例研究会、Zoomミーティング、テーマは「クオリティ・オブ・デス」〈泣いて〉生まれて〈笑って〉死ぬ――〈いのち〉の臨界点(Critical point of Life)をさぐる)には、主催者から送っていただいた「参加者のアンケート」(感想・意見・質問)の記述から、キリスト教や仏教などの聖職者・僧侶、病院などでターミナル期の臨床に携わる医療者、自治体で高齢者ケアにあたる職員、「死の受容」を卒論テーマに選んだ大学生、大学院の「グリーフ・ケア」研究者など、さまざまな分野の方々が参加されていた。
「アンケート」には、①「病いる(病いを生き切る)」、②「死を怖がらなくてもよいという〈道しるべ〉を立てる」、③「これからは〈救命〉だけでなく〈救死〉という視点も必要である」(免疫学者・多田富雄さん)についての感想・意見が多くみられた。今回の研究会では、18枚のスライドをPPT(パワポ)で見ながらのZoomミーティングだったが、私がかなりの早口でメモを取る余裕があまりなかったようだ。すでに本コラムでとり上げた内容(前回のコラム№184とも一部重複)ではあるが、この3つの〈ことば〉を短い引用もまじえながら、改めて考えてみたい。(※太字は原山。以下同じ)
①「病いる(病いを生き切る)」(俳優・緒形拳さん)②「死を怖がらなくてもよいという〈道しるべ〉を立てる」(在宅緩和ケア医・岡部健さん)③「これからは〈救命〉だけでなく〈救死〉という視点も必要である」(免疫学者・多田富雄さん)
たとえば、8年前(2016年7月7日)、83歳で亡くなった、 作詞家でエッセイストの永六輔さんは、自著『大往生』(岩波新書、1994年)の中で、「大往生」をこのように定義している。
「世の中が平和でも、戦争がなくても人は死にます/必ず死にます/その時に 生まれてきてよかった生きてきてよかったと思いながら/死ぬことができるでしょうかそう思って死ぬことを/大往生といいます 」 (『大往生「ⅴ 父」195~196ページ)
詳細は☞ 186.pdf
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