top of page

原山建郎の連載コラムNo.195です

 しばらくお休みしていた原山建郎の連載コラム「つたえること・つたわるもの」を再開しました。 今回のテーマは『「ゆるさない」自分の心を「ゆるす」/立つことだけが 「奇跡」ではない』です。


「つたえること・つたわるもの」№195

「ゆるさない」自分の心を「ゆるす」/立つことだけが 「奇跡」ではない。


 今回のコラム№195は、前回のコラム『「〈ゆるし〉のちから」―三浦綾子/「誰にも人生の踏絵がある」―遠藤周作』――〈西欧から伝えられ、日本の宗教風土で発芽した「ひと粒の麦」――キリスト教の「実生化」〉を受けて、「ほんとうのゆるし」と「ほんとうの奇跡」について、いま私たちにとって重要な三つのテーマを立ててみました。


☆相手を「ゆるす」のではない。相手を「ゆるさない」自分を「ゆるす」。


△あの人を絶対許さないという自分、そろそろ許そうと心にささやく自分を許さない。つまり許さない本当の相手は、あの人ではなく、あの人を許さない自分自身なのです


△憎い人など/誰もいない/ただ憎いと/思う私が/いるだけ/である☆エリザベス・キューブラー・ロス、「許しのレッスン」、「幸福のレッスン」を読む。


△許しは自分を傷つけた相手の問題ではない。相手のことは心配しなくていい。相手が何をしようと、傷ついたのは自分である。それは相手の問題ではなく自分の問題なのだ。だから、相手への否定的なおもいを手放すことのなかに自由がある。(「許しのレッスン」)


△自分を幸福にするために必要なものはすべてあたえられている。わたしたちはただ、自分にあたえられているものの使いかたを知らないだけなのだ。(幸福のレッスン」)


☆ 立つことだけが「奇跡」ではない。「花びら」は散る、「花」は散らない。△ぼくは、世の中にありうべからざること、理論的に説明のつかないことが起こったってかまわないけど、それも奇跡だと思うけど、それだけが奇跡じゃなくて、どんな状態でも、考えもつかないような結果を生むこと、それが奇跡だと思う。(三浦朱門)


なお、今回のコラムには、以前のコラムに書いたトピックも含まれますが、「ほんとうのゆるし」と「ほんとうの奇跡」を考える手がかりとして再録しました。


本文は☞ 195.pdf


お時間のあるときにお読みください。


☆原山建郎☆出版ジャーナリスト、健康ジャーナリスト、日本東方医学会学術委員、日本文藝家協会会員、武蔵野大学仏教文化研究所客員研究員、文教大学オープン・ユニバーシティ講師、元武蔵野大学・玉川大学・龍谷大学・文教大学非常勤講師

Comments


記事: Blog2 Post

▶当会における「プライバシーポリシー」について
*当協会が個人情報を共有する際には、適正かつ公正な手段によって個人情報を取得し、利用目的を「事例」に特定し、明確化しています。
*個人情報を認定協会の関係者間で共同利用する場合には、個人情報の適正な利用を実現するための監督を行います。
*掲載事例の無断転載を禁じます。

▶サイト運営:全国メッセンジャーナースの会(東京都新宿区) ▶制作支援:mamoru segawa

©2022 by メッセンジャーナース。Wix.com で作成されました。

bottom of page