原山建郎の連載コラムNo.195です
- mamoru segawa
- 8月2日
- 読了時間: 2分
しばらくお休みしていた原山建郎の連載コラム「つたえること・つたわるもの」を再開しました。 今回のテーマは『「ゆるさない」自分の心を「ゆるす」/立つことだけが 「奇跡」ではない』です。
「つたえること・つたわるもの」№195
「ゆるさない」自分の心を「ゆるす」/立つことだけが 「奇跡」ではない。
今回のコラム№195は、前回のコラム『「〈ゆるし〉のちから」―三浦綾子/「誰にも人生の踏絵がある」―遠藤周作』――〈西欧から伝えられ、日本の宗教風土で発芽した「ひと粒の麦」――キリスト教の「実生化」〉を受けて、「ほんとうのゆるし」と「ほんとうの奇跡」について、いま私たちにとって重要な三つのテーマを立ててみました。
☆相手を「ゆるす」のではない。相手を「ゆるさない」自分を「ゆるす」。
△あの人を絶対許さないという自分、そろそろ許そうと心にささやく自分を許さない。つまり許さない本当の相手は、あの人ではなく、あの人を許さない自分自身なのです
△憎い人など/誰もいない/ただ憎いと/思う私が/いるだけ/である☆エリザベス・キューブラー・ロス、「許しのレッスン」、「幸福のレッスン」を読む。
△許しは自分を傷つけた相手の問題ではない。相手のことは心配しなくていい。相手が何をしようと、傷ついたのは自分である。それは相手の問題ではなく自分の問題なのだ。だから、相手への否定的なおもいを手放すことのなかに自由がある。(「許しのレッスン」)
△自分を幸福にするために必要なものはすべてあたえられている。わたしたちはただ、自分にあたえられているものの使いかたを知らないだけなのだ。(幸福のレッスン」)
☆ 立つことだけが「奇跡」ではない。「花びら」は散る、「花」は散らない。△ぼくは、世の中にありうべからざること、理論的に説明のつかないことが起こったってかまわないけど、それも奇跡だと思うけど、それだけが奇跡じゃなくて、どんな状態でも、考えもつかないような結果を生むこと、それが奇跡だと思う。(三浦朱門)
なお、今回のコラムには、以前のコラムに書いたトピックも含まれますが、「ほんとうのゆるし」と「ほんとうの奇跡」を考える手がかりとして再録しました。
本文は☞ 195.pdf
お時間のあるときにお読みください。
☆原山建郎☆出版ジャーナリスト、健康ジャーナリスト、日本東方医学会学術委員、日本文藝家協会会員、武蔵野大学仏教文化研究所客員研究員、文教大学オープン・ユニバーシティ講師、元武蔵野大学・玉川大学・龍谷大学・文教大学非常勤講師
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