ランプの灯を灯しつづけるには、たえず油をそそがねばなりません
- 3月21日
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原山建郎氏の新作『遠藤周作の「病い」と「神さま」』をお届けします。今回は、第六章の2『遠藤ボランティアグループの「生みの親」、奥川幸子さん』です。
2.遠藤ボランティアグループの「生みの親」、奥川幸子さん。
☆「○月○日の○時、○○に来てくれんか」
1982(昭和57)年5月4日、讀賣新聞のエッセイ「心あたたかな病院」で呼びかけた「病院ボランティア」に応募した参加者たちの受けとめ方と、遠藤さんが考えていた聖路加国際病院(当時の名誉院長は日野原重明さん)のボランティア受入れ対応との間に、すれ違いが生じました。当時の経過について、遠藤ボランティアグループの議事録には、次のように記されています。
昭和57年6月23日(水)午前10時、聖路加国際病院に参集したのは、次の6名であった。白須、高岡、谷口、水野、畑、小椋
昭和57年5月4日付の讀賣新聞夕刊に、遠藤周作氏の《心あたたかな病院》が掲載された。その記事で「病人の愚痴や嘆きをじっと〝聞いてあげる〟ボランティア」を呼びかけられた。それに応募した者に(遠藤氏から)返信があり、それに従って聖路加国際病院ボランティア係に連絡すると、リーダーを紹介された。その指示に従って集まったものである。
しかし、遠藤氏と病院側の連絡が不充分で、(遠藤氏からの)返信にあったような(病院ボランティアの適性)テストや教育も受けられないことが判明した。ボランティアの内容も当方の志すものと異なっていたので、ぜひ遠藤氏と話し合う必要があるということになり、白須が折衝することになった。
その対応に苦慮した遠藤さんは、当時、自分が座長を務める素人劇団「樹座」のメンバーで、老人医療専門病院(現東京都健康長寿医療センター)の医療ソーシャルワーカーだった奥川幸子さんに声をかけます。
奥川さんは、遠藤さんが提唱した「心あたたかな医療」運動のことはもちろん知っていましたが、まさか、その日が遠藤ボランティア発足の助走日になるとは思ってもいなかったといいます。
遠藤さんの帰天後、奥川さんから貴重なメモをいただきました。申し訳ないことに、その後紛失してしまいましたが、清書しておいたワード文書が残っていますので、その一部を紹介しながら、遠藤ボランティアグループの発足を願った遠藤さんの思い、強力な奥川さんのサポートをたどってみましょう。
遠藤周作さんが、心あたたかな病院運動を始めたきっかけは、1982年、遠藤家の若いお手伝いの女性が急逝骨髄性白血病で亡くなられた事件が直接のきっかけでした。いまから30年も前の医療水準からみれば、血液がんの症状は辛く、治療も苛酷でした。その挙句の死です。遠藤さんは若いころ、ご自分も結核の手術を何回も受けておられます。本来なら申請すれば、呼吸器疾患の身体障害者手帳の該当になるほどの辛い身体を抱えながら、キリスト教文学創作と狐狸庵活動を両立されていました。
繊細な感性をおもちでしたので、身内のような若い女性の苦痛をご自身の全身に浴びられたのだと思います。血液疾患は、当時から採血だらけの毎日です。亡くなる前日まで採血をする実態をとても悲しそうに語っておられました。もともとの遠藤さんのお考えも基盤にあったのでしょうが、若い女性の死をきっかけに顕在化した「こころ温かな医療を」という想いを、新聞や雑誌などのメディアに寄稿したり、名だたる医師たちとの対談を重ねていきました。
遠藤さんは高名な作家です。たくさんの反響がありました。そのながれの中で遠藤さんが「病人の愚痴や嘆きをじっと聴いてあげるボランティアをやりませんか」と新聞で呼びかければ、応募者が殺到するのは自明のこと。遠藤さんは、それまでに百歳になっても現役の医師として有名な日野原重明先生(聖路加国際病院名誉院長)と対談されて、「ボランティア教育を引き受ける?」旨の約束をしたらしいのです。「らしい」というのは、(遠藤さんが帰天された)いまとなってみれば、どうでもいいことなのですが、「らしい」のです。
ところが、遠藤さんの秘書の方が、病院ボランティア志望の方たちに出した(聖路加国際病院の)教育機関では、すでにボランティア講座は終了していました。多くの応募者の方々はその時点で受講を諦めたのでしょうが、6人の主婦の方たちが頑張って、遠藤さんの事態の打開を求めていらしたのです。
困った遠藤さんは、当時の周辺にいた医療関係者であったわたし(奥川)に目をつけて、いきなり「○月○日の○時、○○に来てくれんか」と呼びだしたのです。それまで、わたしは遠藤さんの「こころあたたかな医療」という社会と医療界への働きかけを知ってはいましたし、ときどき話したりもしていました。ですが、まさか、その日が遠藤ボランティア発足の助走日になるとは思ってもいませんでした。
わたしは、狐狸庵としての人生の愉しみ活動に、30歳ごろから関与していました。サロン・ド・ポープルというダンスを楽しむ会に所属し、年に一度の樹座公演にも数年参加していました。ニューヨーク公演にも参加しました。演じるのは素人、脚本や舞台製作部門は専門家、というとっても贅沢な道楽的遊びだったと思います。遠藤さんは360度方向のアンテナをフル稼働させながら、人を楽しませながら、じっと観察する天才でした。
わたしは当時、東京都の老人医療専門病院の相談援助部門で、医療ソーシャルワーカーとして働いていましたので、遠藤さんにとっては、6人の熱心な主婦の方たちに奥川を会わせたのです。
いまでも覚えています。6人とも半端ではなく迫力も実力もありました。活力にあふれ、主婦としても人間力からみても、すばらしい能力の持ち主でした。おまけにカウンセリング講座もさまざまな機会に受けておられ、自称セミプロ級でした。彼女たちからみれば、わたしは小娘的な年齢と存在だったと思います。かろうじて、医療機関に勤め、カウンセリング的な能力も要求されている専門職的な仕事に就いているだけでした。
遠藤さんは人間観察と洞察の天才です。「このぐらいのおばさんたち(失礼!わたしより年上という意味)ぐらい牛耳れなければ、奥川、本物のソーシャルワーカーにはなれないぞ」と、わたしの耳元で囁いたのです。にやっと笑いながら……。
6人の優秀で活力あふれる女性たちの潜在的な要求と、わたしのプロフェッショナル志向と負けず嫌いな性格を見抜いた上での囁きでした。
(奥川幸子メモの一部)
☆病院ボランティアの活動を開始するまでの準備期間。
遠藤ボランティアグループの実質的な活動が始まるまでの準備期間に、奥川さんは次のことを行いました。
○遠藤さんが呼びかけに手を挙げた医療機関訪問・、ボランティア受入れ打診。
○聖路加国際病院ボランティアグループ活動の実態調査。
○「患者の話を聴くボランティア活動」への戦略的実践への取り組み。
○新たに参加したメンバーが探してきてくれた活動先との交渉。
○準備段階における勉強会(講座)のカリキュラム作成。
○河北総合病院(杉並区)、東京衛生病院(杉並区)から活動を開始する。
○グループの二代目代表(※遠藤さんが初代代表だが、実質的にはメンバーとして初代代表)は、和波その子さん。1982年9月、正式名称を「遠藤ボランティアグループ」に決定。
○その後も勉強会は続ける――新たに参加を希望するメンバーへの面接と会員条件としての講座(3回以上受講)。
○「中興の祖」的な働きをしてくれたメンバー、清田さん(組織を作った)。
このあと、メンバー間で運営、講座実施などを行うようになりましたが、完全に自立できたのは、二代目代表・江頭瑞枝(えとうみずえ)さんになってからでした。
その2年後、奥川さんはグループのメンバーが自主的に活動できるようになったのを機に、それまで勤務していた病院を退職し、「ケアする人(ソーシャルワーカー、ケアマネージャーなどの対人援助職)」を「ケアする人(対人援助職トレーナー)」としての大きな、そして重要な一歩を踏み出しました。
当初のメンバーの主だった人たちは、いまでは立派なプロフェッショナルになっていて、彼らは遠藤ボランティアグループのメンバーたちと同様に、私の誇りである。そしていま、私はフリーランスの対人援助職トレーナーとして≪人を援助する仕事についている人たち≫に対し、主に≪相談援助面接≫をテーマとした教育・訓練を仕事にしている。2000年からスタートする公的介護保険で主要な役割を担うとされているケアマネージャー(介護支援専門員)に必要な視点、知識・技術の中核になるのが≪相談援助面接≫なので、トレーナーとしての仕事の要請が多い。(中略)いまの仕事は、個人レッスンを基盤にしているが、それだけでは、諸々の理由から間に合わないので、1年の半分以上はあちこちに出かけている。人は「全国をまたにかけてご活躍」とはいうが、まるで旅芸人のような生活である。私の身体にたたき込んだ芸を武器にしてあちこちをまわっているのだから、まさしくそうだ。
(『ピープルズ・ネットワーク』1999年、「CARE design」65ページ)
☆「奥川の心臓病は、神様の贈り物だよ」
奥川さんは勉強会の講師など、後方支援の役割に徹したのですが、じつは、遠藤さんが、奥川さんの運命を変える素敵な「ひと言」について、奥川さん自身が、やはり『ピープルズ・ネットワーク』誌(1999年)に書いています。
「奥川の心臓病は神様の贈り物だよ」と2年前に亡くなった作家の遠藤周作さんがいってくれた。そのことばを15年後のいま、ふたたび思いかえしている。
「奥川は、大学時代に心臓の手術をしていなかったら、いまの仕事には就いていなかっただろう? もちろん活発だからなにかをやってはいただろうが、少なくともいまのような仕事には巡り合っていなかったよな」
遠藤さんも結核をはじめとしてさまざまな病気をされてきた方だ。私は当時、彼のまわりに集まっていた数多くの≪遊び友だち≫のはじっこにいただけだが、遠藤さんには『病気友だち』的な親近感を抱いていた。(中略)
(※遠藤ボランティアグループの発足には)遠藤さんに頼まれて(というより強引に押しつけられて)創設時から専門職としての知識と技術を提供するボランティアの立場でかかわってきた。(中略)創設当初から組織がしっかりできあがるまでのあいだは密にかかわってきた。現在ではメンバーが自在に活動しておられるので、私は裏に控えているだけの存在である。この活動組織も遠藤さんが遺してくださった「魂の贈りもの」となった。メンバーたちも私も、この病院ボランティア活動をとおして精神的な体力と生きる力を養わせていただいたと、つくづく感じている。
(『ピープルズ・ネットワーク』1999年、「CARE design」65ページ)
1984年から、フリーランスのスーパーヴァイザー(対人援助職トレーナー)として活動を始めた奥川さんは、ソーシャルワーカー、ケアマネージャーなど対人援助職者を対象にした個人面接、ワークショップ、グループワークを精力的に行うようになりました。
しかし、とても悲しいことに、奥川さんは2018年秋、豊かな愛に満ちた生涯を閉じることになったのです。
しかし、遠藤さんの「心あたたかな医療(病院)」キャンペーンを直接的に支えながら、新たに「心あたたかな医療」を中心的に支える対人援助職のケアワークをさらに支える奥川さんのスーパーヴァイザーという仕事(対人援助職トレーナー)によって、そのトレーニングを受けた人たちを通して、日本の医療・介護の現場で働く「ケアする人」たちに、しっかり引き継がれています。
▼1985年2月、遠藤ボランティアグループ新年会(後列、遠藤さんの右隣りは原山、左隣は奥川幸子さん)

☆えんどう豆のサヤと豆粒のロゴマーク。
1993年、デザイナーの半田康人さんによる、遠藤周作の名前に因んだ「えんどう豆の鞘と豆」のロゴマークが誕生しました。

『遠藤ボランティアグループ 20年のあゆみ』の中に、半田さんは「シンボル・ロゴタイプに託すこと」と題する一文を寄稿しています。
〈エンドーボランティア〉のシンボル・ロゴは、皆さんの自発的行為をひとつひとつの豆にたとえ、それらがサヤに納まり、調和している様子を〈サヤエンドー〉のかたちとして、シンボライズしたものです。単純な発想のものですが、末永く、多くの皆さんに親しまれることを願うと共に、そのようになって初めて、作り手の役割が果たせるのではないかと考えております。
さて、この根っことなる、ひとつひとつの小さな豆粒に象徴される〈自発的行動をとる動機付けとなる意志〉とは、いったいどこから来るのでしょうか?
私は、ボランティア活動に参加できる人々とは、立派な現役生活を終え、悠々自適な環境にいる人々だと思っておりました。いつしか自分も、そのような立場になれば、ボランティア活動に参加することにより、余生を生きるための甲斐をそれなりに感じられるのかもしれないと、漠然と考えている程度の人間でした。しかし、この〈余裕ある時間〉をボランティア活動に費やす、言わば〈余暇的発想〉は、ボランティアへ参加する〈きっかけ〉にはなっても、その動機づけを考えた場合、必ずしも成り立たないことが判ってきました。(中略)
地域のボランティア活動に参加している、私の信頼すべき友人は、以下のことをさらりと私に話してくださいました。
「弱い人に手を差しのべる行為ではなく、多くの人々と触れあう中で、自分ひとりでは経験できなかったことができ、そのことに感謝する自分を覚えるようになった。ひとりだけでは生きていけないことはすべての人が承知しているが、ボランティアへの参加を通して、より自分が〈生かされている〉実感を何よりも強く身に覚えた……」
この言葉は、私の胸の奥にしみ渡り、〈生かされている〉ということを私に再認識させるものとなりました。そして、ボランティア本質的な意味に近いものを語っているのではなかと、強く感心いたしました。
この友人の言葉の意味することと同じ認識を、多くの人が心に描き、〈エンドーボランティア〉のシンボルのように、ひとつのサヤにきれいに納まっている社会を、私は希望を持って切に願っております。
(『遠藤ボランティアグループ 20年のあゆみ』、14~15ページ)
ちなみに、白や淡いピンク、の花が咲くエンドウ(えんどう豆)の花言葉は、「いつまでも続く楽しみ」「必ずくる幸福」「約束」などですが、かわいい花が咲いた後には必ず実がなることが由来だそうです。
❤ マザー・テレサのことば 5
ランプの灯を灯しつづけるには、たえず油をそそがねばなりません。(To keep a lamp burning we have to keep putting oil in it.)



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