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泣きながら生まれて、笑いながら死んでゆく

  • 4月27日
  • 読了時間: 9分

 原山建郎氏の新作『遠藤周作の「病い」と「神さま」』をお届けします。今回は、第八章の「3.泣きながら生まれて、笑いながら死んでゆく」です。


第八章 遠藤さんの宿題

――「泣いて生まれて、笑って死ぬ」 


3.泣きながら生まれて、笑いながら死んでゆく。


☆マイナス思考、ネガティブシンキングにも目を向けよう――五木寛之さんの提言。


 コロナ禍のただ中にあった2020年9月、文教大学のオープン・ユニバーシティ(生涯学習講座=オンライン配信)で行った「〈からだ〉をゆるめて〈こころ〉をほぐす」講座の冒頭で、作家・五木寛之さんの――「人生は何でもやればできる」というポジティブシンキングだけでなく、「長い人生には、思い通りにならないこともある」というマイナス思考、ネガティブシンキングにも目を向けよう。――ということばを紹介したところ、受講者の一人から「なぜ、五木さんは、ポジティブシンキングだけでなく、ネガティブシンキングを、とおっしゃったのでしょうか?」という質問がありました。


 五木さんは『大河の一滴』(幻冬舎、1998年)の中で、マイナス思考・ネガティブシンキングの勧めについて、次のように書いています。


 私たちは、人生は明るく楽しいものだと最初から思いこんでいる。それを用意してくれるのが社会だと考えている。しかし、それはちがう。


 シェークスピアの『リア王』の登場人物がつぶやくように、「人は泣きながら生まれてくる」のだ。私はこれまでもくり返しそのことを書きつづけてきた。この弱肉強食の修羅の巷、愚かしくも滑稽な劇の演じられるこの世間という円形の舞台に、私たちはみずからの意志でなく、いやおうなしに引き出されるのである。あの赤ん坊の産声は、そのことが恐ろしく不安でならない孤独な人間の叫び声なのだ、と嵐の荒野をさまよう老いたリア王は言う。

これをネガティブで悲観的な人生観と笑う人もいるかもしれない。しかし、かつてはブッダ(仏陀)の出発点も、「生老病死」の存在としての人間を直視するところからだった。この「生老病死」を人間のありのままの姿とみる立場こそ、史上最大のマイナス思考だといっていい。


 問題は、そこから出発する、ということではないだろうか。「泣きながら生まれてきた」人間、「生老病死」の重い枷をはめられた人間、そのような人間のひとりとしての自分が、それでもなお、豊かに、いきいきと希望をもって生きる道があるのか。それともないのか。答えのないその問いに全存在を賭けて二十九歳の青年ゴータマ(ブッダ)は旅に出たのだ。妻を捨て、子供を捨て、地位と名誉と平安な生活を捨てて、彼はひたすら人間探求の道を歩みつづける。


 いまこそ私たちは、極限のマイナス地点から出発すべきではないのか。人生は苦しみの連続である。人間というものは、地球と自然と人間にとって悪をなす存在である。人は苦しみ、いやおうなしに老い、すべて病を得て、死んでゆく。私たちは泣きながら生まれてきた。そして最後は孤独のうちに死んでゆくのだ。

 そう覚悟した上で、こう考えてみよう。


 「泣きながら生まれてきた」人間が、「笑いながら死んでゆく」ことは、はたしてできないものなのだろうか。


 それはなかなかむずかしいことのような気がする。しかしマイナス思考の極みから出発したゴータマは、少なくとも微笑みながら病で死んだ。その臨終の物語は、彼が自分の上に影を落とす樹々の姿を「世界は素晴らしい」と讃えつつ自然に還っていったことを述べている。最大の否定から最高の肯定へ、マイナス思考のどん底から出発して世を去った人間だったからこそ、二千年のいまも、多くの人びとはブッダの生涯に熱い心を寄せるのではあるまいか。

(『大河の一滴』16~18ページ)


 極限のマイナス地点、嘆き悲しむべき「死」という最大の否定を、「笑いながら死んでゆく」という最高の肯定へと導く「クオリティ・オブ・デス」のとらえ方や、「安らかな死を迎えるまで、笑いながら生きて死ぬ〈生き方〉」を考えるためのヒントが、ここにあります。

 

〈いのち〉をきたえる健康法から、やしなう〈養生法〉へ。


 文教大学のオンライン講座では、もうひとつ「〈からだ〉をきたえる健康法から〈いのち〉をやしなう養生法へ」をとり上げました。なぜ、きたえる(健康法)ではなく、やしなう(養生法)なのか、それは、雑誌『致知』2012年12月号で語った、五木寛之さんのことばがヒントになっています。

 

五木 実際、いまは空前の健康ブームといってもいいくらい、マスコミや書店にはいろんな健康法が氾濫しているし、そういうものに踊らされてしまいがちです。けれども本当は健康法の問題じゃない。大事なのは養生だと私は思います。


―― 健康法ではなく、大事なのは養生だと。


五木 養生というのは、ただ体を維持するというだけでなく、生を養うことです。自分の可能性を十二分に発揮して、人生をしっかりエンジョイするために、自分で自分の体をケアすることなんです。なんとなく古臭いイメージがあるので、健康法とかアンチエイジング(※抗加齢・抗老化)とかいうことのほうが新鮮に感じるんだろうけど、私はいま大事なのは養生だと思いますね。

(『致知』2012年12月号「大人の幸福論」より抜粋)

 

 漢字熟語の「健康」を『広辞苑』(新村出編、岩波書店、1955年)で引くと、「身体に悪いところがなく、すこやかなこと。達者。丈夫。壮健」、同じく「養生」は「①生命を養うこと。健康の増進をはかること。衛生を守ること。摂生。②病気・病後の手あてをすること。保養。」と書かれていました。


 和語の「すくやか〔健〕」を『字訓』(白川静著、平凡社、1995年)で引くと、「ものに屈しない剛直なようすをいう。「すく」は直。曲折することのない状態をいい、のちに健康の意になった」、また、「やしなふ〔養〕は「はぐくんで育てる。その生長を助けることをいう」と解説されています。


 さらに、「きたふ〔鍛ふ〕」を『角川古語辞典』(久松潜一・佐藤謙三編、角川書店、一九五五年)で引くと、「①金属を火で熱し、打って硬度を高める。精錬する。②繰り返して習熟させる。修練する。」とあり、①は〈からだ〉(物理的な肉体)を精錬する、②は〈こころ〉(目に見えない働き)を修練するという意味があります。

 

 五木さんの「(健康な)体(の状態)を維持するアンチエイジングというだけでなく、生(いのち)を養うことです」、「人生をしっかりエンジョイするために自分で自分の(いのちの容れ物である)体をケアする(養う)こと」ということばから、全5回のオンライン講座に通底する共通のモチーフを「〈からだ〉をきたえる健康法から〈いのち〉をやしなう養生法へ」としたのです。

 

「生」と「死」は、一枚のコインの表と裏のようなもの。


 在宅ホスピス医、内藤いづみさん(甲府市・ふじ内科クリニック院長)は、シニア女性誌『いきいき』2013年6月号に寄稿したエッセイ『産声をあげるとき、息を引き取るとき』の中で、『チベット死者の書』(河邑厚徳・林由香里、NHK出版、1993年)に書かれた経典の一節を紹介しています。

 

生と死は、コインの表裏のようなもの。


 以前、作家の遠藤周作先生からいただいた『チベット死者の書』を思い出しました。これは、死の瞬間から次の生を得て誕生するまでに魂がたどる四十九日の旅を描写した経典で、臨終を迎えた人の枕元で僧が読む習慣がチベットにはあるのだそうです。


 経典には、「私たちが泣きながら生まれてくるとき、周囲の人々は歓喜の声をあげる。私たちが死んでいくとき、周囲の人々は泣き、私たちは歓喜に満ちて笑う」と書かれていました。


 私の患者さんの多くは、亡くなって30分くらい経つと、穏やかないい笑顔になります。

その顔を見ていると、「ああ、いいところに行ったんだなあ」と、こちらもほっとした気持ちになる。あっちの世界々は怖いところではなさそうだ、と思わせていただいています。

 (『いきいき』2013年6月号

 

 また、19世紀に活躍したアメリカの思想家、ラルフ・ウォルドー・エマーソンに、あなたが生まれたとき、あなたは泣いていて、みんなは微笑んでいた。 だからあなたが死ぬときは、あなたが笑って、みんなが泣くような人生を生きなさいという名言があります。

 

阿形で生まれ、吽形で息をひきとる。


 もうひとつ、「阿吽(あうん)の呼吸」ということばがあります。「二人上でいっしょに物事を行うときの、互い微妙な気持ち二人の息が合うこと」をいいますが、阿は口を開いて最初に出す音、吽は口を閉じて出す最後の音。阿吽は宇宙の始まりと終わりを表す言葉です。人も阿形(あぎょう)でオギャーと口を開いて生まれ、 吽形(うんぎょう)で口を閉じ、息を引きとるのです。阿(あ)は最初の音で、吽(うん)は最後の音と言われています。

 

 人は生まれるとき、「おぎゃあ(産声)」と泣いて(呼気で)息を吐き、肺を浸していた羊水を吐き出して、口から息(酸素を含む空気)を肺に吸い込み(吸気)、次に息(炭酸ガスを含む空気)を吐き出す――ここから肺呼吸が始まります。人生最初の「阿」の呼吸です。そして、逝(ゆ)くときは、「うん」と口を閉じて吽の呼吸で息を吐いて、「死」を迎えます。


 人は生まれると呼吸筋で肺を押してと息を吐くことから始めるわけで、新生児が「オギャー」と泣くのは、息を吐いているわけですが、「息を引き取る」ということばがあるように、亡くなるときは、ほとんどの人が息を吸って(吸気)、人生の終焉を迎えるようです。

 

☆禅のことば「啐啄同時」は、お浄土からの「往相の呼応」


 仏教では、人が亡くなる(死)ことを「往生(おうじょう)」といいます。人は死後、必ずお浄土(彼岸・ゼア)に「往(ゆ)」きて「生(い)」きる、わが身が救われてゆく。これを「往相(おうそう)」といいます。


 さらに、お浄土に行きっぱなしではなく、直ちにこの世(此岸・ヒア)に「還(かえ)」ってきて、すべてのものの苦悩を救う〈はたらき〉をする。これを「還相(おうそう)」といいます。つまり、この世(此岸・ヒア・現住所)で暮す私たちが、死後にお浄土(彼岸・ゼア・本籍地)に救われて生きる「往相」、そして再び、この世(此岸・ヒア)に還ってきて、救いの〈はたらき〉をする「還相」というとらえ方です。


 これを、〈いのち〉の本籍地である「お浄土(仏のまなざし)」から見てみると――人の誕生(出産)は、この世(此岸・ヒア・現住所)に「往」きて「生」きる「往相」=新生(New Arrival)、つまり妊婦のいきみと胎児の娩出がもたらす「往相の呼応(母親がわが子に「生まれておいで」と呼びかけ、胎児が「いま生まれるよ」と、母の呼びかけに答える)」であり、また人の死は「これまでよく生きた。お浄土に還っておいで」と告げる「還相の呼応(絶対者である仏の呼びかけに、私が答える)」――「新しい旅立ち(New Departure)」を介して、懐かしいお浄土(彼岸・ゼア・本籍地)に還ってゆく「還相」=「故郷への帰還(Return to Home)」である、と考えることができます。

 

 禅のことばに「啐啄同時(そったくどうじ)」があります。卵の中の雛が「もうすぐ生まれるよ」と内側から殻をつつく「啐(そつ)」の音、卵の変化に気づいた親鳥が、「ここから出てきなさい」と外側から殻をつつく「啄(たく)」の音が、ぴったり同じタイミングでシンクロする。これも「往相の呼応」といえるのではないでしょうか。

 

♣ エリザベス・キュブラー・ロスのことば 3

雲の後ろには常に光があるThere is always light behind the clouds.

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