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病いを生きる、老いを生きる

  • 5月1日
  • 読了時間: 7分

 原山建郎氏の新作『遠藤周作の「病い」と「神さま」』をお届けします。今回は、第八章の「4.病いる、老いる――病いを生きる、老いを生きる」です。


4.病いる、老いる――病いを生きる、老いを生きる。


☆「病いる」――「老い」を演じた名優・緒形拳のことば。


 キーボードで「やまい」と打つと、「病(やまい)」と表示されますが、一文字では「びょう」のイメージが強いので、私はひらがなの「い」を送って、「病(やま)い」と書くようにしています。


 ところで、「病い」といえば、『往復書簡 いのちのレッスン』(内藤いづみ×米沢慧著、雲母書房、2009年)の中に、連続テレビドラマ『風のガーデン』(2008年、フジテレビ系)出演が遺作となった俳優、緒形拳さんが、すべての収録が終わった二日後の記者会見で語ったことば、「病いる」に関する興味深い考察が載っています。


 同書の共著者のひとりである評論家、米沢慧さんのブログ「いのちことばのレッスン」(2016年5月4日掲載)によると、米沢さんが『自然死への道』(朝日新書、2011年)を上梓して間もなく、東日本大震災が起こった年の夏、一人の読者から届いた感想はがきのなかに「今年も桜をむかえました。夫は病(やま)いる身をまっとうしました」と書かれていたといいます。


 その一文から、かつて緒形拳さんがテレビの記者会見で語って、とっさにメモした「病(やま)いる」のことばを読み直し、緒形さんが伝えたかった「病(やま)いる」の意味を、米沢さんは次のように書いています。

 

 緒形さんは8年ほど前から肝炎をわずらっており、五年前に肝がんに移行。家族以外にはそのことを一切口外せず本人の強い意思で入院治療もしないで、役者として全うしたということです。つまり、その間、緒形さんは病気でありながら闘病の姿をだれにも見せなかった、患者の暮らし方をさいごまでしなかったということ。さらに終末期、いわゆるキューブラー・ロスの「死とその過程」もなかったようにおもえたこと。この二つの事実に衝撃と感銘があつまったようにおもいます。


 その後も追悼番組でドラマ「ディアフレンド」「帽子」も再放送されました。いずれも老いを演じたすぐれた作品でしたが、これらを観ながら、わたしは役者、緒形拳が口にした「病(やま)いる」ということばを探していました。たしか、記者会見のなかだったようにおもいますから、新ドラマの役柄で使われる言葉かもしれません。おもわずハッとして、メモしたのです。


 「病(やま)いる」(「病める」ではなく、)


 「病む」や「病める」ではなく、「病い」でもなく「病いる」という表現。


 「やまい」を辞書で引く、あるいはパソコンで「やまい」と打つと「病」であり、送りのある「病い」は誤りだといわんばかりに示されません。ですから「病いる」など引き出すことはできません。


 しかし、わたしに言わせれば、病(びょう)と病(やまい)は同じではありません、ちがいます。英語でいえば前者はdisease、後者はillnessでしょう。


 「病」「病い」「「病いる」


 わたしは語源的にこだわったのではなく、「病(やま)いる」を自己表現として、意思的な強いことばとして聴いたのです。俳優緒形拳の死はその言葉と深く関係しているのではないか、そう思えたのです。


 では「病(やま)いる」とは何でしょうか。


 「病いる」は「老いる」と同じ響きをもったニュアンスをつたえることばではないか、そうおもいます。ここで「老いる」とは、体が衰えていく、老化していくという意味ではありません。「老いる」とは「老いをいきる」ということばです。老いに抗うとか老いと闘うというのでもありません。


 同じように「病いる」とは、体が病んでいくことではありません。また、患者として病気に抗うとか、がんと闘うということでもありません。誤解をおそれずに言ってみます。病気を健康に受けとめること、つまり「病いをいきる」ということばだったのではと。

緒形さんはそのような受けとめ方をした人ではないか、そんな思いがしたのです。

(『往復書簡 いのちのレッスン』57~58ページ)

 

 「老いる」とは「老いをいきる」ことであり、同じように、緒方さんが言った「病いる」とは「病いをいきる」ことなのです。さらに、「いきる」ということばを「人生をともに生き切る」と読み替えれば、「老いの人生を受け止め、ともに生き切る」、「病いの人生を受け止め、ともに生き切る」となるのです。


☆ 産まれることと、死ぬこと。「いのちの臨界点」ということば。


 やはり『往復書簡 いのちのレッスン』のなかで、共著者である甲府市の在宅ホスピス医、内藤いづみさんのことを、米沢さんは、「いのちの番人」と呼んでいます。


 さて、残しておいた「いのちの番人」についてふれたいとおもいます。この言葉には生命の質ではなく生命の深さに向き合っている姿が見てとれます。すると即座に内藤いづみさん自身のことば「いのちの臨界点」で説明できそうです。いづみさんはある対談で臨界のイメージについてこう語っています。


 「赤ちゃんを産むときには、これが臨界点、これを超えたら出産というのがありますね。それと同じで、ぎりぎりまで生きると、これ以上は生きられないという臨界点があるようにおもいます」


 ホスピスケアがいのちのケアにほかならないことをおしえてもらったことばでもあります。生誕と死を同じ場所で起きる異なるいのちの出来事としてみていることです。生まれることと死ぬことが、(いのちの)臨界点ということばで一つになっているのが示唆的ですね。


 赤ん坊は、母の体内で(えら呼吸)九ヶ月、臨界点からオギャーと一声、肺呼吸の世界に産出されて届けられます。母の意思でうまれることはありません。いのちは往きの相でたちあがり、成長期の姿となっていきます。一方、老衰期に向かう還りのいのちもまた「これ以上は生ききれない」という臨界点(寿命)として受けとめられます。終末期とはその不可逆的ないのちのドラマ表現ということになります。


 「いのちの番人」はそのシーンに立ちあっているのです。寄り添っているのです。

今回の書簡では「患者さんの訴えをトータルペインとして受けとめることが少しできるようになったかもしらない」ということばで伝わってきます。だれもがホスピスケアは全人的ケアだといいますし、そう聞きます。そして、まず、身体的痛みがあって……医療用麻薬(モルヒネ)の投与というように話は続きます。しかし、15年のキャリアからいづみさんから出たことばはやはりちがいました。


●患者さんの気持によりそうとモルヒネの投与量と期間がとても減る。

●患者さんと家族の不安を減らすことが痛みを減らすことにつながる。

●「二四時間いつもあなたと繋がっています」というバックアップが痛みを減らす。


 これが「いのちの番人」の正体ということです。おもしろいのは、ペインゼロにすることではないこと。「痛みはまあまあです」という患者さんの声が聴ける関係にあることが大事だという指摘です。患者―家族に、いづみさん(在宅医)が三人目の役割として自覚的に係わることで、やさしさとやすらぎが共有されている。私の言葉でいえばファミリー・トライアングルのかたちになっているからだとおもいます。


 医師だからといって医療の科学的な力(たとえば、モルヒネ)を最大の武器にしないで、むしろ二次的に利用することで、心が通い合う人間関係(これをコミュニケーションといっては誤りです)を紡ぎこんでいくということでしょう。だから、ここで「痛み」とは生きる上でだれもがかかえている痛みのことで特別な痛みではない。つまり、痛みの共感は他者と理解し合う際の大事な左様でもあるということ。だからでしょうか、痛みをゼロにすることではなく、「(痛みは)まあまあです」ということばで生のたしかさが受けとめられている。そんなふうにおもいます。

(『往復書簡 いのちのレッスン』217~219ページ)


♣ エリザベス・キュブラー・ロスのことば 4

私はこども達に、私が死を迎えたら卒業を祝う時のように風船を空に放してね、と話した。私にとって、死は卒業である。(I've told my children that when I die, to release balloons in the sky to celebrate that I graduated. For me, death is a graduation.)

昨日について常に考えているなら、もっと良い明日を迎えられない。You can't have a better tomorrow if you are always thinking about yesterday.)

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