「開業ナース、村松静子」
- 54 分前
- 読了時間: 8分
スタッフの記事「開業ナース集団の活動があったから」です。今回は「Ⅴ、開業ナース 村松静子」を紹介します。
Ⅴ、開業ナース 村松静子
おそらく、ナースとしてのプロ魂は病院時代の20代の頃から培われたものであろう。理論と実践の融合をめざし、臨床の場でも真剣に看護に取り組んだことがうかがえる。その、人一倍強い使命感と正義感を持ち合わせたリーダーのもとなればこそ、約20年もの間ナース集団として在宅看護活動を継続することができたと考える。
ある療養者の方が、村松さんは男か女かわからないところがあるので「鎌倉の大仏さんだ」と言った。確かに、一スタッフである私からみても、時に戦士のような厳しさと、女神のようなやさしさの両方をみた思いがする。
17、「白衣にかけた私の使命」 1972年サンパワー11月号 日本赤十字総合病院看護婦 村松静子さん(25歳)取材記事全文 彼女は、看護婦としての仕事をより高めることに余念がない。必要とあらば、外国にさえ飛び出していくほどだ。看護婦にかける彼女の情熱は、目を見はらせるものがある。 白衣のお色直し 今年の5月、彼女、村松静子さんは晴れて結婚式をあげた。その時に、こんなエピソードがある。 ![]() 式を終え、披露宴で最初のお色直しが終わってから、「お願いがある」といって彼女は席をはずした。席は静まりかえった。 ほどなくして、白衣の看護婦の制服を着た一人の女性が入ってきた。よく見ると、それが彼女ではないか? 静まりかえった場は拍手の渦にかわった。その時のことについて、先輩であり、また上司でもある足達看護部部長は、「いゃあ驚きましたね。長年看護婦をやっており、同僚や後輩の結婚式に幾度か出席しましたが、披露宴で看護婦の制服なんてはじめてでしょう。ところが、その制服がとてもよく似合って、披露宴はいちだんと盛り上がり、なんともいい雰囲気になりましてね。その時私は、彼女が看護婦という仕事に、いかに誇りをもっているか、ということがわかりましたね。日ごろ、職場での彼女のことを知っているだけに、さすがだと思いました。こんな後輩をもって私は幸せだナと思い、うれしくてなりませんでした」と、その時の様子を思い浮かべながら話してくれた。 「仕事に対する使命感」といっても、いろいろである。はじめから、その職業に対して、使命を燃やして職業についた人もいれば、職業について、やっていくうちに、その仕事の尊さや意義をしり、それから使命感を感じるようになった人もある。 彼女の場合は後者に属する。 彼女が看護婦の仕事を選んだ動機については、とくべつにこれといったものはなかった。しいてあげれば、彼女の生来の「生きもの好き」が、そうさせたのかもしれない、とのことである。彼女は、犬、猫、小鳥、魚などなんでも飼っており、高校時代には、メダカの遺伝の研究をしたこともある。 「はじめは、生物学か何かをやってみたいと思っていたのですが、ちょっとしたことから、看護婦のことを知り、看護婦学校に行くなら日本赤十字がいいということで、日赤短大を選んだのです。そんな状態でしたので、使命感などというのは、はじめはぜんぜんありませんでした」 短大での最初の1年の時は、実習で患者の下の処理をやらされたりして、彼女は少なからずショックを受けた。 しかし、看護婦の勉強が進むにつれて、じょじょに看護婦と言う仕事の何たるかを知り、使命感を抱くようになっていった。 そして、短大の3年生になったころ、人間の生きがいというものは、こういうものにあるのではないかと、おぼろげながらわかってきた。<この道にこそ!>といよいよ心が決まったのは、実際に病院で勤めるようになってからであった。 思えば、幼少のころ、彼女は、白衣の看護婦にあこがれて、幼稚園の先生に「あたし、看護婦さんになるの」といっていたのが、奇しくも現実となったのである。 大切な積み重ね依来、彼女は、自分の人生を「白衣」にかけた。そして、昼夜、その看護婦の仕事をマスターすべく、努力が続けられた。医学の本も読んだ。そしてまた、実際の仕事を通して、自己の働きを深めていった。 彼女が看護をしていた患者さんが亡くなるなど、辛い思いをしたことも一度ならずあったが、また反面、看護のかいあって、見事に死を乗り越え、元気になって退院していく患者の姿―それは、なににもかえられない彼女にとっての喜びでもあった。 患者と共に泣き、共に喜びを味わってきたこの5年間であった。 この間に、彼女の田舎(秋田)にある脳血管センターというところに勤め、脳についての勉強も積んだ。 その時の脳外科のドクターで、いっしょうけんめいに彼女を指導してくれた先生が、今でも、彼女にあてて、脳外科の資料を送ってきてくれるとのことである。それも彼女の仕事にかける熱意あればこそでなかろうか。そのため、彼女は、脳のことについて、かなりの知識を深め、患者の容態が急に変り、意識がなくなったような場合でも、あわてることなく、それに対処することもできる。 彼女は、看護婦に関するものなら、何でもマスターしようという意味で、自分のついている看護婦の仕事を常に高め、深めていくことに力を注いできたのだった。 「こんなことは、当然のことであり、だれもがそれなりの立場でやっていることではないでしょうか」と彼女は言うが、ただばくぜんとやっている人が多いのではなかろうか? 彼女は自分自身を高め、視野を広くしただけ、それだけ、看護婦の仕事も高まってくるのではないかと、常にその努力をおこたらないのである。 そして、彼女は見聞を広めるために、よく暇を見つけては旅行する。そのため、日本のほとんどの場所には行っており、数年前には、ヨーロッパ一人旅にでかけ、外国をみてまわった。万博へも一人ででかけてきた。「実際に足を運び、見聞してきたことが、患者さんと対話したりする場合に、どれほど役立っているかもしれません」と彼女はいう。 彼女の、そうした目にみえない陰の努力が時には、患者を、どれほどなぐさめ、力づけたかしれない。彼女は5年間の看護婦生活を振り返って、次のように述べている。「看護婦1、2年の間はなにもできませんね。正直にいって、1、2年は、ただ動くことはできますが、その深みというか、自分なりにどう動いたらいちばんいいかということがもうひとつわからないんです。それが、5年目にして、やっと、看護婦としてあるていどのことができるって感じですね」やはり、積み重ねが大切だということだろう。 真の看護婦また、彼女は、いかなる気持ちで看護婦として患者に接しているのであろうか? 「私は、この患者が自分の母親だったり、父親であったり、また、肉親であったら、どうするだろうか、と常に考えて接することにしているんです。だれしも、自分の肉親と言うのは大切ですよね。そんな気持ちで接していると、どんな患者であっても、つっぱることはできませんからね」彼女は、わが肉親として接するあまりに、共に泣いたことも幾度もあった。彼女の生活は、まさに「人の喜びが、わが喜びであり、人の悲しみがわが悲しみ」であったのである。人間、なにが尊いといっても、人の身になって考えることのできることくらい尊いものはないであろう。 また看護婦として大切なこととして、「人間関係」を彼女は重視する。患者や先輩、同僚との関係もさることながら、医師との人間関係がなにより大切である、と力説する。「医師と呼吸があっていなければ、医者としての力を十分発揮させることはできないし、それだけ看護婦としての力もだせないことになる」と彼女はいうのである。 彼女は、この5月に結婚したのであるが、仕事と家庭のことについてはどう受けとめているのだろうかー。「看護婦がほんとうに看護婦としてやっていけるには、結婚してからだと思うんです。子供ができてはじめて、真の看護婦というものが生まれるんじゃないかと思います。子供ができると、その子供に対する愛情も生まれてきますし、それだけ気持ちにゆとりがでてきますし、それが患者さんに対しても、より、深い思いやりをもって接することができるようになるのではないでしょうか?その意味では、私は、看護婦の仕事がほんとうに発揮できるのは結婚してからだと思います」と、いう。しかし、現実問題として、子供が生まれた場合、仕事とどう両立させていくのか、ということについての心配もないではなかった。 ![]() 幸い、ご主人が看護婦と言う仕事に対して、非常に理解もあるので、仕事は今後も続けて行きたい、と彼女は語っている。また、家庭のことについてはー。「仕事は仕事、家庭は家庭とはっきりわけていますし、できるだけ、仕事を家庭にもちこまないようにしています」といい、例えば「仕事のことで本を読んだりしなくてはならないときには、家で読まず、10分でも5分でもいいから、通勤の電車の中で勉強するようにしている」とのことであった。 このルポルタージュを通して、彼女からもっとも感じられたことは、何事にも真摯に、そして前向きに常に取り組んでいこうとする心の姿勢があることであり、それが、看護婦としての使命感をいちだんと強め、高めていった原動力になっているのでは…・ということであった。 |
この掲載紙は最も古く、セピア色になってしまった。その本を手にして、やっぱり若い!(今の娘さんと同じ位の年齢)そして、アンダーラインからはなるほど。この時代があり今の代表村松があることを実感する。
「日本の看護・看護教育 20世紀の100人」 2000年 看護教育8―9月号 全文 推薦者・五十嵐ユミ子筆 村松静子氏が在宅看護を支援しようと思い立った時点は、わずか十数年前なのに、まだ日本の医療は病院が中心で、在宅医療・在宅看護は保健事業と開業医師の往診で回転していたように思う。ただ病院の看護に限界を感じていた中の幾人かは、真の看護を求めるのであれば「看護者の手で在宅看護をひきうけることだ」と話し合った記憶がある。 氏は何もないところから走り始め、行政に働きかけ、医療者を含む周囲の人々へ影響を与えていった。誠実にそして精力的に「私の看護を買ってください」と看護を提供した。 その意味を理解してもらうだけでも、多くの時間を費やしたと察する。 その努力はマスコミを動かし、多くの学識経験者が氏の希望を支援した。今日の訪問看護の夜明けは、氏の活動がなくてはあり得なかったであろう。「看護の自立」を求めてやまない氏のねがいと困難は未だ尽きることがない。 ![]() |
短い推薦文の中に、凝縮された評価。一時期を共に歩んだ者として素直に嬉しい。





コメント