「看護師さんに看取ってほしいのです」
- mamoru segawa

- 8月2日
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連載「患者と医師の認識ギャップ考」の21回目です。村松静子さん(在宅看護研究センターLLP代表)が、「看護師さんに看取ってほしいのです」のテーマで認識ギャップについて執筆しています(ご略歴などは執筆当時のものです。ご了承ください)。
「看護師さんに看取ってほしいのです」
村松 静子(在宅看護研究センターLLP代表)
2017/10/03
訪問看護制度が民間に解放される少し前の1998年8月末のことでした。一人暮らしの91歳の紳士Tさんが、在宅で、息子のように可愛がっていたMさんと言葉を交わしながら穏やかに逝きました。今にも語り出しそうなその顔には、苦しみなどはまったく感じられず、満足感がにじみ出ているように、私には思えました。
在宅医から「今の訪問体制ではどうもお気に召さないようなので、一度会ってもらえないだろうか」と要望があり、医師と一緒に訪問したのが最初の出会いでした。その時、まずこう話されました。
「最期に家族になっていただきたい」
「私は尊厳死協会にも入りました。リビングウィルにもサインをしました。最期に救急車で病院へ運ばれるのは嫌です。もう91歳です。この家で亡くなりたいのです。最期にお医者様がいらっしゃるのではなく、あなたたちナースさんに看取ってほしいのです。法律上で不可能なこともおありでしょうから、あなたたちにご迷惑をかけることはいたしません。今からそのことをお医者様にお伝えしておいて、お医者様が先に駆けつけるのではなく、あなたたちに来ていただくようにしてほしいのです。それが私のお願いなのです。私には家族がおりません。家族がほしい。最期に家族になっていただきたいのです」。
医師と私を前に語るTさんの語り口に惹きつけられた私が、帰りの電車の中で書き留めておいた言葉です。もちろん、これらのことは、帰り際に医師と再確認し合いましたし、訪問看護が始まった後も、たびたび確認し合ったことでした。
「これまでたくさんの方を診察してきたけど、あんなにはっきりと自分の考えをいう方は珍しいよ。一度入ってもらったナースがいるけど……いい人なんだよ。でも、要らないっていうものだから困ってしまったんだよね。それで、あなたのところに……お父さんが医者だったこともあるかもしれないけど……。あなたの考えと同じように、私もあの方の希望を極力支えたいと思うので、訪問の時や、あなたがかかわったことはできるだけ詳しく教えてね」。医師のこの言葉が耳に残っています。
それ以降、『不整脈、狭心症、冠動脈不全、老人性白内障』の診断の下に、胸痛が頻繁に出現するたびに、中心になってかかわっていた看護師が駆け付けました。彼女が必要と判断した時は、生活の様子を私に報告しました。そして、私の判断によって、医師へ報告するというパターンができていました。
看護師さんが駆けつけてくるから、何も心配はいらない
視力の低下、歩行困難が進む中でも、杖をつき、つたい歩きで台所や浴室、トイレへ行くのが習慣でした。息を切らし、途中で休みながらも、それは亡くなる前日の夕方まで続きました。その間、時には夜に、私の方から電話をかけ、テレビの番組のことなどを話しながら、息づかいや様子を把握することもありました。
「自分でできることは自分でしたいのです。他人様の手を煩わせるようなことはしたくないのですが、寝ているうちに死んでしまうのは嫌です。最期は自分で分かった上で終わりたいと思っています」。
Tさんは自分でひげを剃り、自分で身なりを整え、最期まで背中以外を他人に洗わせることはありませんでした。痛みの除去を第一に望み、笑みをみせながら「私は長く生き過ぎました」というのが口癖で、全米でベストセラーになったレック・ハンフリーの著書『FINAL EXIT』をテーマに議論もしました。自立しながらも“安心”“家族の存在”をいつも望んでいました。
「癌の方に対しては、最大限痛みを取る方法が図られる。それなのに、生き過ぎてしまった私のような者の苦しみを取る方法は考えられていない。積極的に苦しみのない死を遂げる方法は日本には未だない。寝たきりになる時間が長かったり、苦しみが続いたりすることだけは避けたいのです。でも、このような見苦しい話のできる相手は限られています」。
Tさんは、医師であった父親のこと、食事に厳しかった母親のこと、学生時代のこと、一人っ子で何不自由なく育てられたこと、ビジネスに没頭したころのこと、20年前亡くなった妻のこと……。頭の後ろに両手を組んで、ときどき天井に目を向けながら、懐かしそうに、その時代にさかのぼって話してくれました。
そんなある日の夕方、「いつもより強い痛み止めを出してもらうよう、村松さんから先生に、直接話していただきたいのです。あなたがお話にならなければいけません」。
医師との連携を徹底して私に望んだTさんが、首に下げていた安心ペンダントを初めて押し、不調を訴えたのは死の2日前のことでした。そのペンダントを押すと、まず、中心になっている看護師のポケットベルが鳴り、続いて私たちの組織、そして私と3段階に呼び出される仕組みにしておいたのです。
亡くなった日、TさんはMさんをなぜか呼び出し、「おうどんでも食べなさい。ベースターズは、がんばってるかね。このペンダントを押すと、すぐに看護師さんが駆けつけてくるから、何も心配はいらない」と告げた後だそうです。呼吸が少し乱れ、笑顔で「ありがとう」と言い、数分後に逝ったのだといいます。
「私も自分の家であのように逝きたい」。Mさんが駆けつけた医師と私たちの前で呟いた言葉です。
Tさんがよく語っていたことの1つにプロ野球のことがあります。「私はベースターズのファン、あなたは巨人、ここは違いますねえ」と愛嬌たっぷりの顔でいうのです。こう話すMさんの言葉に、Tさんらしいなあと思わず笑みがこぼれてしまいました。
Tさんが自分らしく生き抜くことができた理由に、買い物や家事援助、話し相手や声掛け、マッサージなど、選べる支援体制をTさん自らが作っていたことがあります。加えて、1カ月1~2回の医師の往診、週2~3回の巡回訪問看護、および緊急訪問看護、24時間の電話相談も受けられていました。
しかし、見事な死を遂げられた最大の理由は、Tさんの言葉をしっかり受け止め、Tさんらしさを支え抜こうという医師と看護師の考えが一致して、その信頼関係の下での密な連携だったのではないかと改めて思うのです。

■著者紹介
村松 静子(むらまつ せいこ)
日本赤十字社医療センターICU初代看護師長。「在宅看護」という言葉すらなかった時代、その道を開拓しつつ、ひたすら看護の原点を模索し続けてきた。現在、その集大成として、メッセンジャーナースの育成と連携プロジェクトの構築に取り組んでいる。2011年に、顕著な功績のあった看護師に授与されるフローレンス・ナイチンゲール記章を受賞した。
日経メディカル Online 2017年10月3日掲載
日経BPの了承を得て掲載しています。








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