「生きて、僕が、みんなに会いに行く」
- mamoru segawa

- 2025年9月6日
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連載「患者と医師の認識ギャップ考」の26回目です。渡邉八重子さんが「中学3年の12月に逝ってしまった君の言葉」のテーマで認識ギャップについて執筆しています(ご略歴などは執筆当時のものです。ご了承ください)。
中学3年の12月に逝ってしまった君の言葉
「生きて、僕が、みんなに会いに行く」
渡邉 八重子(松山赤十字看護専門学校副学校長)
2018/03/05
「誰も呼ばなくていい! 僕が、みんなに会いに学校に行く」。何とか聞き取った君の声が、君の心が叫んでいた。「生きていたい! 生きてみんなと一緒に同じものを見て、聞いて、触れて感じて、大声で笑いたい!!」と。「何を言っているの。もう君の命が尽きようとしているの。もう助けることができないと思うから。君に『だれに会いたい?!』『学校の友達? 先生?』と聞いているのよ」。君の命が尽きることは、自分が一番分かっているのに……。
君の名は「たけし」。中学校3年生の5月。
生まれてからずっと重症感染を繰り返した肺は、息をするところが残ってないのか、苦悶しベッドの真ん中で、小さく丸まった君の身体は、生きることの終わりを告げていた。
先天性免疫不全症、小脳失調症。君の母が聞いた君の病名。先天性免疫不全症で論文を探ると、日本での症例報告は7例、成人した例はない。
これまでの15年間は、たけしはもちろん、家族にとっても、今にも消えゆく命と生きたい希望との葛藤の日々であったに違いない。これ以上の治療は、痛く苦しい思いをさせるだけではないだろうか。医療者、看護師としての思いをぶつけるには、あまりに小さな愛おしい姿。
「じゃ!!私が学校に、友達のところに連れて行く。絶対に連れて行く!」。たけしの、「もっと生きていたい」という思いに触れた医師・看護師のだれもが誓った。やるべきことは決まった。「きっと、これが最後。たけしを学校に連れて行く。そして友達や先生と過ごす」と。
たけしに問う。
「息をするには、喉の穴をあけるの。気管切開というんだ」
「いいよ。それで学校に行けるのだったら」
「気管切開は知っているよ。友達も気管切開をして、学校でも喉から淡を吸引していたよ」
幼いころから治療を担当した小児科A部長は、すぐに支援学校の担任の先生に、たけしの「学校に行きたい。自分が友達や先生に会いに行きたい」という思いを伝え、院内呼吸器センターや耳鼻科医師と懸命に治療に奔走する。担当のPTは、今にも折れそうな細い手足のリハビリテーションに、たけしとともに挑む。
私たち看護職だって他の医療職には負けられない。「学校に行く」というたけしの思いを実現する道筋を描き、寄り添い勇気づけ、ともに泣きともに笑った。
7月25日、一学期の終了式。ここを目標にした。
たけしの担任の先生に、それを告げた。返ってきたのは、「その日は避けてほしい」と。「何故?」。担任は、毅然として言う。「私のクラスの子ども達一人ひとりは、言葉には出しませんが『自分は、生きて今日は学校に行けるのか。明日は……』と思っています。一人ひとりが、一学期を生きて終えたことを実感する日なのです。一人ひとりの大切な瞬間なのです」。「申し訳ありませんが、たけしには、翌日の26日に登校してもらいます」。きっぱりと!!
1期終了式の翌日、夏休み最初の日。
たけしは、みんなに会いに学校へ行った。夏休みというのに欠席者なしの学校では、担任の先生の作詞、音楽の先生の作曲による「お帰り、たけし。待っていたよ、たけし」を、涙を流して大合唱したという。たけしとの思い出にひたり、明日への希望を語る時を過ごした。
たった一日の、一度きりの登校だった。
享年16歳。中学3年の12月に君は逝ってしまった。
丁度その夜、私は、研修のため病院を離れていた。たけし担当の看護師からの電話で、たけしの死を知った。私の、たけしへの並々ならぬ想いを知っていた彼女は「師長さん。大丈夫ですか」と心配げな電話だった。「大丈夫。何故か、たけしが今、ここで微笑んでいるような気がするの」と、応えたことを覚えている。
「僕、バスケット部を辞めた。だって、洗濯物が増えるから……」
今だから、君にこっそり教えるよ。君の2歳下の弟S君の話。
S君は、当時13歳で中学へ入学したばかり。「師長さん。ぼくバスケット部に入部したよ」と言うから、「ガンバレ。レギュラーになったら、きっとお兄ちゃん応援にいくよ」と言っていた。しばらくして「僕、バスケット部を辞めた」って言うから、「どうしたの。練習が厳しかったの。根性がないなあ」と、冷やかし半分で軽く受け答えた。「だって、洗濯物が増えるから……」と。
はっとした。「そうだった!! この子は、お兄ちゃんが病院で療養している間、いえ、生まれてからずーと、我慢して我慢して……。そして、自分のことは自分で決めて、全部、自分でやってきたのだ。お父さんが癌で亡くなった時、お母さんが、お兄ちゃんのことで目を真っ赤にしている時も、いつも、いつも……」。
それから、S君は、その後にこう続けたよ。「師長さん。お母さんにそっと伝えて欲しいことがある。『お母さんは、僕のことは気にせず、精一杯にお兄ちゃんの面倒を見てあげてね。そして、僕がお母さんの面倒を見るからね』って」……。
中学1年生が、こんな事を言う! 病気や障害とともに生きたたけしが、兄として、立派に弟を育てたのだと思った。たけしは、凄い子だと思う。私の宝物、そして誇り。
S君は、こんなことも言っていたよ。「今度は吹奏学部に入ったよ。顧問の先生は『自分のパートの練習をしながらでも、他のパートの人のことを考えろ。楽しい時、悲しい時にも、君のことを思ってくれる人がいる』と言うんだ」。そして、「芸予地震の時に、動けない兄ちゃんの胸に飛び込んでいた。兄ちゃんが、力の入らない手で僕を抱きしめてくれた。兄ちゃんは、自分が楽しい時にも悲しい時にも、僕のことを思っていてくれていたんだね。きっと、先生は、そう言いたかったと思うよ」。
今、母は、障害児の通う幼稚園で保母さんをしている。弟S君もまた、自分の道を歩んでいると聞く。
たけしは、自分自身で自分らしくどう生きるかを選択した。たけしの母親や弟S君は、自分で自分らしくどう生きるのかを選択する。だれもが、自分らしい生を全うする生き方の選択に悩み苦しみ葛藤し、そして決断する。
看護師である私は、メッセンジャーナースとして、その葛藤をありのままに認め、自分らしい生を全うする治療・生き方を選択する際のこころの懸け橋になりたい。
たけし! たけしのお母さん、そして弟S君。看護師として出会った私は、あなた方にとってメッセンジャーナースだったでしょうか。そして、メッセンジャーナースになれるでしょうか。
でも、君と約束するよ。
未熟なメッセンジャーナースの私は、君の生き様をお手本に、これからもずっとずっと一生懸命に看護していきます。
■著者紹介

渡邉 八重子(わたなべ やえこ)
松山赤十字病院卒業後、松山赤十字病院で看護実践・管理を松山赤十字看護専門学校で看護師養成を担う。その経過のなかで、患者・家族は、地域・在宅で療養生活を切望していると感じると同時に、それには多くの不自由・困難・苦痛があることを痛感した。『地域の一人ひとりがその人らしく生きる療養の(ふる)里』を目指し、「地域医療連携を考える会」を発足。「病院と在宅看護・介護の合同研修会」を継続、また「療養支援ナース」としエキスパートナースを病棟に配属したまま一人ひとりの患者の療養支援を担う仕組みの整備、「地域看護チーム」「地域医療福祉チーム」としての活動、さらに住民と共に地域が一体となった活動などを積極的・創造的に取り組んできた。
現在は、将来の看護・地域さらには社会を創造し担うであろう桜の苗木のような看護学生が勉学に励む、母校の副学校長を務める。
日経メディカル Online 2018年3月5日掲載
日経BPの了承を得て掲載しています。








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