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遠藤さんの人生には、つねに「母の面影」がありました

 原山建郎氏の新作『遠藤周作の「病い」と「神さま」』をお届けいたします。今回は、第一章の3『遠藤さんの人生には、つねに「母の面影」がありました』です。


3. 遠藤さんの人生には、つねに「母の面影」がありました


☆ 東西医学の医師、治療師との対談—―『治った人、治した人』


 1981(昭和56)年、遠藤さんの連載企画『治った人、治した人』が始まりました。この企画には、二つの注文がありました。


 ひとつは、ある病気や症状が「治った人」を複数の患者を取材して、それが概ね信頼できると判断した時点で、それらの患者を「治した人」と遠藤さんが対談するという注文です。「治した人」には、西洋医学の医師、東洋医学の治療師、あるいは民間治療の研究者でもよいのですが、もちろん医師法や薬事法に接触しない範囲での取材を心がけました。しかし、実際に「治った人」を取材し、さらに「治した人」の周辺情報を検討した結果、その企画をボツにすることもあり、なかなか手間とお金(ボツ=不掲載でも謝礼を支払う)のかかる注文でした。


 もうひとつは、「自分で」試せる治療法は、必ず「体験する」という注文です。たとえば、東京・入船の鉄砲洲診療所で、木下繁太朗医師の「胎盤埋没療法」を体験したときのこと。胎盤エキス(プラセンタ)を上腕部に皮下に注射する治療法ですが、当の遠藤さんは、「君からやり給え。ボクは君がだいじょうぶだったら……」と、私の結果待ちを決め込みます。1カ月後に、「大丈夫でした」と報告しても、「そうか、よかった、よかった」のひと言だけ。そのほかにも「メガビタミン療法(ビタミンCの大量摂取)」や「(マイナス150度の冷凍室で行うエクササイズ)冷凍運動療法」など、もっぱら私が「自分(遠藤さん)」の体験代行を務めました。


 もちろん、天下の遠藤さんにもしものことがあったら、それこそ大変です。「ボクの役目はアジテーター、やるのは君たち」と涼しそうに語る遠藤さんの言葉は、やがて私自身のライフワークにつながる応援歌となりました。


 この連載企画『治った人、治した人』に、いちばん熱心だったのが遠藤さんご自身で、その成果をご自分の病気治療にも生かしていました。たとえば、痔では平田肛門科医院(平田洋三院長)で日帰り手術を受けました。その数日後、ドーナツ型座布団係で、遠藤さんの新潟講演(南魚沼郡・ゆきぐに大和病院)にお供しました。また、前立腺ガンの疑いのときは、できるだけ切らずに治すと評判の名医、当時の東海大学泌尿器科・小柴健教授に受診しました。


 遠藤さんはかなり「せっかち」な性格で、知りたいことがあると、いつでもすぐ編集部に電話をかけてきます。会社が休みの日には、担当者の自宅に電話をかけてきます。


 「お父さん、遠藤とかいう男の人から電話だよ」


 ことし41歳になる長男が、まだ高校生だったころの話ですが、あわてて受話器を受けとりながら、冷や汗をかいたこともありました。


 こんなこともありました。私が赤坂の歯科医院で、まさに治療を始める寸前に、編集部から「すぐ遠藤先生に電話を」という緊急連絡が入りました。


 あわてて、受付の公衆電話から遠藤さんに連絡を入れると、「どうも白板症らしいんだが、この病気のことを早急に調べてくれ」と電話口の向こうから、切羽詰まった声が聞こえます。


 すぐに歯の治療を中止して編集部に戻り、何人かの専門医に電話で白板症の情報を取材して、その結果を遠藤さんに報告しました。健康雑誌の記者である私は、遠藤さんの病気に対する不安、死ぬことに対する恐怖を、直截的な言葉ではなく、その困ったような表情や何気ないしぐさから感じとっていました。


☆ 遠藤周作物語の幕開けは、悲しみのヴェールに包まれていました。


 古今東西の冒険物語や昔話のように、私たちの人生には典型的なパターンがあります。それは、(1)セパレーション(出立、きっかけ)、(2)イニシエーション(通過儀礼、困難な旅)、(3)リターン(帰還、故郷へ還る)というものです。


 日本昔話の『桃太郎』を例にとると、(1)=お婆さんが作ってくれた「キビ団子」をもって鬼退治に出かける「旅立ち」です。(2)=鬼が島に向かう途中で、旅の仲間(サル、キジ、イヌ)が加わり、敵役(トリックスター)の鬼たちと一戦を交えます。これがイニシエーションです。さて、(3)=鬼退治という困難な旅を勝利で終えた桃太郎一行は、許しを請う鬼たちを殺さず、鬼が島には留まらず、お爺さんお婆さんの待つ、故郷のわが家に帰還(リターン)します。


 このパターンは、メーテルリンクの童話『青い鳥』でも用いられています。主人公のチルチルとミチル兄妹は夢の中で、魔法使いのお婆さんから頼まれて、(1)の青い鳥をさがす旅に出ます。そして(2)の散々苦労して青い鳥をさがす困難な旅では見つからず、とうとうあきらめたところで目が覚める、(3)のリターンでは、何とわが家の鳥籠に幸せの青い鳥がいるのを見つけます。


 遠藤周作物語の「幕開け」は、悲しみのヴェールに包まれていました。


 遠藤さんが10歳のとき、両親は不和から離婚します。1933(昭和8)年、母・郁は2歳年上の長男・正介、次男・周作の兄弟を連れて、中国・大連から海路、神戸に帰国して、カトリック信者である伯母の家に同居しました。


 翌年5月、音楽家である母・郁が、勤め先である兵庫県宝塚市の小林聖心女子学院聖堂で受洗します。


 つづいて6月には、周作と兄・正介が夙川(兵庫県西宮市)のカトリック教会で洗礼を受けます。洗礼名はパウロ。これがパウロ遠藤周作としての第二の「幕開け」であり、キリスト教徒としての出立の日(セパレーション)でした。


 遠藤さんは、「自分から進んで洗礼を受けたわけではないが」と言いながら、大好きな母の勧めで受洗したことを、一生の宝物として誇りに思い、うれしく感じていました。 


☆ 戦後初のフランス留学も、突然の血痰、肺結核で、無念の帰国。


 さて、遠藤周作物語の始まり(イニシエーション)です。


 「第一幕」は、1940(昭和15)年、2年連続で旧制第三高等学校の受験に失敗し、天下の灘中学を183人中141番の成績で卒業します。兄・正介はこの年に旧制第一高等学校を卒業して、東京帝国大学法学部に入学し、東京・経堂の父・常久の家に移ります。周作も東京で大学を受験するため、母を裏切った父の家に心ならずも同居することになります。1943(昭和18)年に慶応義塾大学文学部予科に入学しますが、父が命じた医学部を受けなかったために勘当され、父の家を出て、カトリックの学生寮に移ります。戦局はさらに苛烈となり、徴兵検査を受けますが、肋膜炎のために第一乙種で入隊1年延期となるうちに、日本は敗戦の日を迎えます。


 「第二幕」は、1950(昭和25)年、その2年前に慶応義塾大学仏文科を卒業した周作が、戦後初のフランス留学生となったことです。留学の目的は現代のカトリック文学の研究でした。


 ところが、留学3年目の春、突然の血痰、療養、喀血、入院……、肺結核の発病です。翌年1月、留学を2年半で断念し、海路にて日本の神戸港に帰国。母に付き添われて東京に戻った周作は、再び父の家に同居することになりました。そして、その年の暮れ、最も悲しい出来事が起こります。突然、母・郁が脳溢血のため、58歳の若さで急死するのです。


 「第三幕」では、うれしい出来事が起こります。1955(昭和30)年7月、『白い人』で第33回芥川龍之介賞を受賞。同年9月には、慶応仏文科の後輩、岡田順子と結婚。父の家を出て、同じ世田谷区の経堂に新居を構えます。翌年には長男が誕生し、芥川龍之介の名前をとって、龍之介と名づけました。


 「第四幕」はその5年後、1960年には肺結核の再発、三度にわたる大手術、3年間の入院生活、B型肝炎、糖尿病、高血圧症など数々の「病い」が芥川賞作家の行く手を阻みます。それでも、1963年の『わたしが・棄てた・女』、1966年の『沈黙』、1973年の『イエスの生涯』、1980年の『侍』、そして1993年の『深い河 ディープ・リバー』へとつづく、数々の話題作を世に送り出してゆくのです。


 「第五幕」でも、「病い」はその手をゆるめませんでした。1995(平成7)年11月には文化勲章を受章しますが、その3カ月前に脳内出血を起こし、順天堂病院に緊急入院となり、晴れの授賞式には出席できませんでした。その年の暮れ、友人の遠山一行・慶子夫妻の自宅で開かれた、ごく内輪の受賞パーティに車椅子で出席し、友人たちのお祝いを受けました。


☆「俺はもう光の中に入った、おふくろにも兄貴にも逢った……」


 そして、1996(平成8)年9月29日、73年間にわたる「人生劇場」の幕を閉じて、遠藤さんは新たなステージ(リターン)に進まれるのです。その臨終の様子について、順子夫人が書かれた『夫の宿題』(PHP研究所、1998年)の一節をご紹介します。


 人工呼吸器のスイッチがパチンという音と共に切られ、思わず私は時計を見ました。時計の針は、ちょうど夕方6時半を指していました。「まだ人工呼吸の余波で5分ほどはお命がおありです」とH先生はおっしゃられ、それではこのまま死なすには忍びないと思い、口や鼻に入っている管を全部抜いて頂きました。


 30秒くらいですっかり管も抜けて穏やかな顔に戻ったなあと思う間もなく、主人の顔は歓喜に充ちた表情となり、まるで体中から光が満ち溢れているようでした。1年前から口があまりきけなくなり、もっぱら手を握り合うことで、主人の意思や今やってほしいことなどを判別する習慣がつづいておりました。


 臨終の時も主人の手を握ったままでしたが、主人の顔が歓喜に充ちた表情に変容した途端に、「俺はもう光の中に入った、おふくろにも兄貴にも逢ったから安心しろ!」というメッセージが送られてきました。(中略)


 1年間ほとんど口がきけず会話が失われていたのですが、その失われたものがあったからこそ、手を握り合ってコミュニケーションを伝え合う訓練ができていて、そのメッセージをキャッチすることが可能だったのだと思います。神様お見事ですと、申すしかありません。

(『夫の宿題』191~193ページ)


 同書には、次の一節もあります。


 よく山本健吉先生に「奥さんは転びバテレンならぬ転び観音」とからかわれていた私は、主人の臨終の様子を見て初めて、本当のカトリック信者になれたような気がしています。なくなる前の3年半の歳月にわたる闘病生活を通して、主人は意識の深い部分で私を信者として鍛え直してくれ、再会のメッセージを残して、カトリックの信仰を全うするように勇気を与えていってくれたのではないかと思うと、申しわけなさで一杯です。


 井上神父の話によりますと、なくなる1年前の夏、軽井沢で井上神父と二人で話している時、「俺は随分日本のカトリック教会のために尽くしてきたと思うんだけど、どうもあまり受け入れられなくてちょっと淋しいよ」と珍しく弱音を吐いたようでした。井上神父もそれを聞いて「そうだろうなあ」と思ったと一周忌のミサの時、話してくださいました。

(『夫の宿題』201~202ページ)


 かつて、文芸評論家・江藤淳さんが朝日新聞の書評で『沈黙』を取り上げて、「ここに出てくるイエスは母親である。踏み絵で踏まれるイエスの顔は、西洋の厳しい父親の顔ではなくて、日本の優しい母親の顔である」と書いたことを、遠藤さんはたいそう喜んだといいます。


 その意味でも、かつて、いやいまでも母・郁がそうであったように、順子夫人もまた妻であると同時に、遠藤さんにとって、永遠の「マリア観音」であったということができます。


(以下、次回に続きます)

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