僕が神を棄てようとしても、神は僕を棄てないのです
- mamoru segawa

- 2025年12月6日
- 読了時間: 9分
原山建郎氏の新作『遠藤周作の「病い」と「神さま」』をお届けいたします。今回から、「第二章 僕が神を棄てようとしても、神は僕を棄てないのです」に入ります。
第二章 僕が神を棄てようとしても、神は僕を棄てないのです
1.『深い河 ディープ・リバー』に描かれた「神さま」
☆遠藤さんが描く「神さま」には、四つの段階がある。
かつて、『三田文學』元編集長で、遠藤さんの愛弟子である作家、加藤宗哉さんの講演を聞く機会がありました。私は健康雑誌の「からだ番」記者でしたから、遠藤文学の流れを汲む加藤さんの話はとても参考になりました。
加藤さんの研究によれば、遠藤さんが描く「神さま」には、四つの段階があると言います。
最初は、43歳のときの『沈黙』です。
心ならずも踏み絵を迫られるポルトガルの宣教師・ロドリゴに、「踏むがいい」と言った神さま。どんなときにも決して咎めず、裁くこともせず、ただ黙って抱きしめてくれる、〈母〉のようなイエス(神さま)です。
2番目は50歳のときの『イエスの生涯』。
英雄的でもなく、美しくもなく、奇跡なんか起こせない、病気で苦しむ者のそばに、ただ寄り添うことしかできない、〈無力〉な神さまです。
3番目は57歳のときの『侍』です。
藩主の命を帯びて渡欧してローマ法王に謁見するも、帰国するや幕府の禁教令によって刑死することになる、東北のとある藩の下級武士(小説のモデルになった支倉常長は、帰国から2年後、失意のうちに死去した)が主人公ですが、刑場の入り口で「ここからは……、あの方がお供なされます」という従者の言葉に、〈永遠の同伴者〉としてのイエス(神さま)が描かれています。
そして、最後は70歳のときの作品『深い河 ディープ・リバー』です。加藤さんの言葉を借りていえば、キリスト教、ヒンドゥ教、仏教……、すべての宗教を超えた神さま、ユング心理学でいうグレート・マザー(太母)のような〈愛(慈悲)のはたらき〉が、この作品に登場します。
全13章のうち、半分の五章が「磯辺の場合」「美津子の場合」「沼田の場合」「木口の場合」「大津の場合」に当てられています。
インド仏跡旅行に参加した4人と神学生の大津、合計すると5人の登場人物が抱える迷い、苦しみ、悲しみ、そしてかすかな希望の物語が、作者である遠藤さんの実人生と重なるように描かれています。
たとえば、磯辺はガンで亡くなった妻が遺した手紙を頼りに、愛する妻の「生れ変り」を探しに……。美津子は、学生時代に誘惑し、そして棄てた大津が神父を目指したフランスの修道院を追い出され、インドに渡ったという消息に引かれて……。童話作家の沼田は、かつて結核で入院手術したとき、まるで身代わりのように死んだ九官鳥の面影を求めて野鳥保護区に……。木口は、戦時中のビルマで死んだ友の肉を口にしたことに苦しみ、酒の飲みすぎがもとで亡くなった戦友・塚田の法要のために……。
そして汎神論的な考え方ゆえに異端視され、リヨンの修道院を追われるようにインドにきた大津は、ガンジス河で死ぬためにたどりついて行き倒れた人々の死体を、ヒンズー教の火葬場に運ぶという仕事に就いています。
☆最晩年の小説『深い河』に登場する、3人のボランティア。
この作品には、3人のボランティアが登場します。一人目は、この作品で唯一、ファーストネームで呼ばれる人物、(成瀬)美津子です。実は美津子には、インド旅行に参加した磯辺の妻が入院していた病院に、土曜の午後だけ、病院ボランティアとして食事の介助や話し相手をしていたことがありました。
磯辺の妻は、美津子に「成瀬さん、生れ変りを信じますか」「人間は一度、死ぬと、またこの世に新しく生れ変るって本当」「わたくし、生れ変って、もう一度、主人に会える気が、しきりにするんです」と語りかけましたが、美津子は「わたくしにはわかりません」と呟くだけでした。
大学卒業後、実業家の御曹司と結婚した美津子は、かつて自分が棄てた男・大津がリヨンの神学校にいることを知り、パリへの新婚旅行の途中で抜け出し、神父を目指す大津に会いに行きます。
かつて、「本当に神なんて棄てたら」と毒づいた美津子に、「ぼくが神を棄てようとしても…… 神はぼくを棄てないのです」と泣きそうな顔をした大津でしたが、リヨンで会った彼は、美津子がきらいな「神」という言葉の代わりはトマトでも玉ねぎでもいいと言って、神学生にあるまじき「異端的」な言葉を口にします。
「神は存在というより、働きです。玉ねぎは愛の働く塊なんです」
「ぼくはヨーロッパの基督教を信じているんじゃありません、僕は……」
「それに、ぼくは玉ねぎを信頼しています。信仰じゃないんです」
「やがて日本に戻ったら……日本人にあう基督教を考えたいんです」
しかし、美津子はからかい半分に「破門にならないでね、大津さん」と言うだけでした。
二人目は、木口の戦友・塚田が吐血して入院中、配膳の病院ボランティアとして、そっと胸で十字を切る馬面の外人青年・ガストンです。ある日、塚田は彼にたずねます。
「ビルマでな、死んだ兵隊の肉ば……食うたんよ。何ば食うもののなか。そげんばせねば生ききらんかった。そこまで餓鬼道に落ちた者ば、あんたの神さんは許してくれるとか」
ガストンはいつになくきびしい表情をして「ツカダさん、人の肉を食べたのはツカダさんだけではない」と言い、かつてアンデス山中に墜落した飛行機の生存者たちが、最後に息を引きとった酒のみの乗客の肉を、最後の食べものにした話をするのでした。
「この人たち、生きてアンデスから戻った時、皆、悦びました。死んだ人の家族も悦びました。人の肉を食べたことを怒る者はいませんでした。酒のみの男の妻もこう言いました。あの人ははじめて良いことをした、と。彼の町の人たちはそれまで彼の悪口を言っていましたが、もう何も言いません。彼が天国に行った、と信じています」(中略)
その慰めが塚田の苦しみを癒したか、どうかは木口にはわからない。しかしベッドの横に跪いたガストンの姿勢は折れ釘のようで、折れ釘は懸命に塚田の心の曲りに自分を重ね合わせ、塚田と共に苦しもうとしていた。
2日後、塚田は息を引きとった。顔は想いもしなかったほど安らかだったが、しかし、どんな死者の死相も最後は平和なものだ。「父さん、まるで寝てるごとある」と塚田の細君が呟いたが、木口には安らかなデス・マスクはガストンが塚田の心からすべての苦しみを吸いとったためだ、と思えてならなかった。
そう言えば、その臨終の時、ガストンはいなかった。どこに消えたのか、看護婦たちも知らなかった。
(『深い河』「木口の場合」、162ページ)
三人目は、フランスでキリスト教の神父になったあと、どこかしっくりこない違和感を覚えてインドに渡り、現在ではアウト・カースト(不可触賎民)同然の身なりで、ガンジス河で死ぬためにやってきて行き倒れた人々を、河のほとりの施設やヒンズー教の火葬場に運ぶボランティアに身を投じた大津です。
☆ 人々を包んで河が流れている。人間の河。人間の深い河の悲しみ。
インドで再会した美津子に、ヒンズー教のバラモン(聖職者)でもないのになぜと問われ、大津は「玉ねぎがこの町に寄られたら、彼こそ行き倒れを背中に背負って火葬場に行かれたと思うんです。ちょうど生きている時、彼が十字架を背にのせて運んだように」と答えます。
「でも、あなたの行為は玉ねぎの教会では評判が悪いんでしょう」と毒づく美津子でしたが、大津はひるまずに、「でも結局は、玉ねぎがヨーロッパの基督教だけでなくヒンズー教のなかにも、仏教のなかにも、生きておられると思うからです。思っただけでなく、そのような生き方を選んだからです」と言い切ります。
そして、玉ねぎが十字架にかけられたとき、それを見棄てて逃げた弟子たちのなかに、玉ねぎが転生しているのだと言うのでした。
「玉ねぎが殺された時」と大津は地面をじっと見つめながら呟いた。まるで自分に向かって言いきかせるように、「玉ねぎの愛とその意味とが、生きのびた弟子たちにやっとわかったんです。弟子たちは一人残らず玉ねぎを見棄てて生きのびたのですから。裏切られても玉ねぎは弟子たちを愛し続けました。だから彼等一人一人のうしろめたい心に玉ねぎの存在が刻みこまれ、忘れられぬ存在になっていったのです。弟子たちは玉ねぎの生涯の話をするために遠い国に出かけました」(中略)大津は絵本をひろげて印度の貧しい子供たちに読んで聞かせているような口調で呟いていた。
「以来、玉ねぎは彼等の心のなかに生きつづけました。玉ねぎは死にました。でも弟子たちのなかに転生したのです」
(『深い河』297~298ページ)
サリーに身を包んだ美津子がガンジス河に全身を沈めたとき、すべての不快感が消えました。南側では白衣の男が死体の灰をスコップで流している。祝福された黄色の花やピンクの花も、死んだ仔犬の死体も流れていきますが、それらにまったく無関心で、人々は水の中で動き、体を沈め、祈っています。
はじめは「本気の祈りじゃないわ。祈りの真似事よ」と弁解していた美津子でしたが、やがて「でもわたくしは、人間の河があることを知ったわ。その河の向こうに何があるか、まだ知らないけど。でもやっと過去の多くの過ちを通して、自分が何をほしかったのか、少しだけわかったような気もする」と思うようになっていきます。
彼女は5本の指を強く握り締めて、火葬場のほうに大津の姿を探した。
「信じられるのは、それぞれの辛さを背負って、深い河で祈っているこの光景です」と、美津子の心の口調はいつの間にか祈りの調子に変っている。「その人たちを包んで、河が流れていることです。人間の河。人間の深い河の悲しみ。そのなかにわたくしもまじっています」
彼女はこの真似事の祈りを、誰にむけているのかわからなかった。それは大津が追いかけている玉ねぎにたいしてかもしれなかった。いや、玉ねぎなどと限定しない何か大きな永遠のものかもしれなかった。
(『深い河』338ページ)
☆ カトリック教会から、『沈黙』が「禁書扱い」されたこともある。
この作品には、マハトマ・ガンジー語録集の一節が登場します。
「私はヒンズー教徒として本能的にすべての宗教が多かれ少なかれ真実であると思う。すべての宗教は同じ神から発している。しかしどの宗教も不完全である。なぜならそれらは不完全な人間によって我々に伝えられてきたからだ」(中略)「さまざまな宗教があるが、それらはみな同一の地点に集り通ずる様々な道である。同じ目的地に到達する限り、我々がそれぞれ異なった道をたどろうとかまわないではないか」
(『深い河』306ページ)
♠ マハトマ・ガンジーのことば 1
神は宗教を持たない。(God has no religion.)









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