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「月曜の会」で学んだこと

 原山建郎氏の新作『遠藤周作の「病い」と「神さま」』をお届けいたします。今回は、第二章の2『日本キリスト教芸術センター、「月曜の会」で学んだこと』です。


2. 日本キリスト教芸術センター、「月曜の会」で学んだこと


☆ ユング心理学――グレート・マザー、サムシング・グレート。


 1980年代後半から90年代にかけて、遠藤さんは、キリスト教にかかわりの深い作家や芸術家(音楽評論家の遠山一行さん、同夫人でピアニストの遠山慶子さん、作家の森禮子さん・加賀乙彦さん・三浦朱門さんなど)とともに「日本キリスト教芸術センター」を設立し、1982年3月から毎月(原則的に)2回の勉強会「月曜の会」を開催していました。


 この勉強会では、ゲストスピーカーの講義を1時間ほど聞いたあと、軽食とビールが並べられたテーブルを囲んで、講師にさまざまな質問をするのですが、いちばん熱心に質問するのは、いつも遠藤さんでした。


 このころ、精神科医のエリザベス・キューブラー・ロスの『死ぬ瞬間』(1971年、読売新聞社)、シャーリー・マクレーン(女優)の『アウト・オン・ア・リム』(1986年、地湧社)、アンドルー・ワイル(統合医療医)の『人はなぜ治るのか』(1993年、日本教文社)などを通して、「死後の世界」、「転生(生れ変り)」に深い関心をもち始めた遠藤さんは、ユング心理学、仏教・キリスト教の学者を、「月曜の会」に招くようになりました。


 ユング心理学の泰斗で心理療法家の河合隼雄さんは、昔話を題材に「グレート・マザー」を解説した『昔話の深層 ユング心理学とグリム童話』(1994年、講談社)などの著書があり、遠藤さんとは旧知の仲で、「月曜の会」でも講演しています。たとえば、遠藤さんは、私たち編集者と話すときに、キリスト教の神学でいう「神」ではなく、「グレート・マザー(大いなる母のイメージ、太母)」や「サムシング・グレート(人知を超えた、偉大なるもの)」などの表現を好んで使っていました。


 これらはユング心理学でいう集合的(普遍的)無意識ですが、遠藤さんは「神なるもの」という意味で用いており、『深い河』では大津に「神は存在というより、働きです。玉ねぎは愛の働く塊なんです」と言わせています。


☆ 玉ねぎの麟片に宿る、神の〈いのち〉を見落としていないか。


 「玉ねぎ」といえば、河合さんは『おはなし おはなし』(朝日文芸文庫、1997年)のなかで、神学生の大津が偶然口にした「玉ねぎ」という言葉が、シンクロニシティ(共時性)の意味について深い関心をもつ遠藤さんの言葉であることにふれ、「玉ねぎ」が意味するもの、つまりユング心理学でいうイメージの象徴性について、三つのイメージを示すものだと指摘しています。


 まず、玉ねぎは特有のにおいをもっている。それはときに「くさい」と表現したくもなる。すべて宗教はくさみをもっているし「うさんくさい」傾向さえもっている。しかし、それが玉ねぎの特徴だ。(中略)


 玉ねぎは生でも煮ても焼いても、フライにしてもおいしい。食べ方は好き好きである。21世紀の宗教性は個々人のそれぞれのあり方との関連が重要になるのではなかろうか、「玉ねぎは生で食うべし」とか「食うべからず」とか決めるのは難しいことだろう。


 玉ねぎは地下の存在である。それは天から語りかけたりはしない。地下にあって人の目に触れず、何もないと思っているところから急に芽を出してくるのだ。(中略)


 最後に、玉ねぎは球形である。といっても完全な球形ではない。楕円球と呼んだほうがいいのもある。ともかく、果肉が一枚一枚重なって球形をつくっている。ひとつひとつが集って全体を形づくる。ここにも宗教性に対するヒントがある。しかし、われわれがあわてて、果肉のひとつひとつを味わわず、中心に何があるのかと焦るときは、そこには何も見いだせないであろう。21世紀の宗教性は、中心には何もないと言うのだろうか。玉ねぎは玉ねぎだ。ほんとうの神はそんなのではなく、中心に何かある、と言うのだろうか。


 遠藤周作『深い河 ディープ・リバー』は21世紀の宗教性に対して、答えを提示しつつ、その深さの故に、答えのなかに問いをも内在させて終わっているように思われた。

 (『おはなし おはなし』130~131ページ)


 河合さんが示したイメージのひとつである「楕円球」の譬えでいえば、神は玉ねぎの中心におられるに違いないと見当をつけて、どんどん麟片(うろこ状に重なる皮)を剥いていっても、玉ねぎの中心部には何もありません。最後に残ったものは、剥いた玉ねぎの麟片ばかりであり、そこに神の姿を見出すことはできません。いったいどこに神はおられるのか、あるいは神はおられないのでしょうか。


 目前の些事に気をとられていると、全体を見失うことになるということわざに「木を見て、森を見ず」という言葉がありますが、この「楕円球」の譬えはその逆であるように思われます。つまり、「森(楕円球の玉ねぎ)」という立体画像(ホログラム)のイメージに、あるいは「森の奥(玉ねぎの中心)」に神の姿を追い求めるあまりに、その森を構成する一本一本の「木(麟片)」に宿る神の〈いのち〉を見落としてはいないだろうか、という問いがポイントです。


 キリスト教の『旧約聖書』(「創世記」)では、神が天と地を創造し、そしてあらゆる生き物を創ったあと、それらを治めるために神に似せて人間を創ったとされています。つまり、創造主(神)と被造物(生き物)、そして神の代理人(人間)という3層(あるいは2.5層)構造になっています。いちばん上に、天地をつかさどる「神(楕円球の中心)」があり、その神の下に命運を預ける「生き物や人間(麟片)」がいると見ることもできます。


 それに対して、仏教には天地創造神話的なものはありません。「山川草木国土悉皆成仏(悉有仏性)」、つまり「生きとし生けるもの、ありとしあらゆるものは、すべて成れる仏であり、仏性がある」という考え方です。禅問答のようですが、玉ねぎの話でいえば、麟片の一つひとつが成れる仏であり、その一つひとつに仏性が宿っていると考えることができると思います。


☆ 救急・救命だけでなく、「救死」という視点も必要である。


 「月曜の会」は、遠藤さんの帰天後も、その遺志を継いで開催されました。


 2000年10月には、『免疫の意味論』(青土社、1993年)、『生命の意味論』(新潮社、1997年)などの著書で知られる免疫学者、多田富雄さんの「生命の喜び、生命の悲しみ」と題するお話をうかがう機会がありました。ちょうど、その年の6月に、「ヒトゲノム(遺伝子)解読計画」の終了宣言が出されたばかりのタイミングで、専門知識のない私たちにもわかりやすい、たとえ話をまじえた話は新鮮で、楽しいものでした。拙著『からだのメッセージを聴く』(日本教文社、1993年→集英社文庫、2001年)から、その一部を紹介しましょう。


 ヒトという種のゲノムとは、A(アデニン)、T(チミン)、G(グアニン)、C(シトシン)という、たった四つの化学文字で書かれた30億通りの文章(この遺伝子暗号で、人生と言う生老病死の戯曲を書き上げる)を持った「ヒトの生命活動を決定している遺伝子の1セット」のことです。多田さんはそれをカラオケにたとえて、「その内部に何百、何千曲もセットされているカラオケは、選曲スイッチを押すだけで、歌いたい曲のメロディーと画面があらわれる」のと同じようなものだと説明されました。


 「欣喜雀躍」という言葉があります。


 ようやく飛べるようになった小雀たちが、ちゅんちゅんさえずりながら、あっちの枝こっちの枝と飛び回り、あるいはせわしげにえさをついばんでいる。そんな小雀たちのようすは、生きていることのすばらしさ、「生命の喜び」を感じさせられる光景です。


 不幸なことに、ときとして歌いたくない曲が、カラオケ画面に出てしまうことがあります。


 ヒトゲノムに書き込まれた遺伝子情報に、たった一つ欠陥があるだけで四十歳を過ぎてから発病し、死に至るハチントン舞踏病という病気があります。ある日突然、「生命の悲しみ」をもたらす遺伝子病の一つです。しかし、これまでは死を待つだけだった遺伝子病に曙光をもたらすと期待されるのが、21世紀の「遺伝子治療」です。(中略)


 「個としての生と死をあるがままに受け入れ、種のいのちを次世代に引き継いでゆく」


 これまで受け継がれてきた生命の法則は、遺伝子情報の解読によって大きく変わろうとしています。人類が夢にまで見た「永遠の生命」が、いつか現実のものとなるのでしょうか。(中略)


 多田さんは、『あけぼの』(聖パウロ女子修道会機関誌)での作家・木崎さと子さんとの対談で、生命を救うことは教えても、死は常に敗北であるとしか教えていない現代の医学教育の問題点にふれながら、これからは「救死」という視点も必要であると指摘しています。


 今、医療で救急・救命には非常に重きを置かれていますが、救死ということも重要な医療だと思うのです。救命医療の現場の医師は、ほとんど建築現場の監督のように飛び回り、切った貼ったの仕事をしています。今は新しいタイプの、エンジニア的医者が生れつつあり、専門の技術者としての高度なトレーニングを受けています。それはもちろん大事なことですが、これほど救急・救命が叫ばれているのに、救死ということは言われません。患者がどのように安らかに死を迎えるかということについて、医者は全く教えられていないのです。

 (『からだのメッセージを聴く』254~258ページ)


 その後、『あけぼの』の対談で語られたことについて、木崎さと子さんに手紙を差し上げたところ、ほどなく届いた返信の末尾には、「死から照り返される生」と書かれていました。


☆ ヤクザの遠藤は〈シテ〉、ガストンが〈ワキ〉を演じる『おばかさん』


 やはり「月曜の会」でゲストスピーカーをつとめた仏教学者、紀野一義さんの著書『大悲風の如く』(角川文庫、1981年)の中に、福島県二本松市(旧安達郡大平村)にある鬼女の墓(黒塚)と、その鬼女伝説をもとにした能の演目、『安達原(黒塚)』を引きながら、ワキの役割を考える一文があります。


 安達原に鬼女が住んでいて、旅人が迷い込んでくると、それを誘いこんでは食べていたという話である。それに取材して「安達原」という能ができたのである。


 最初に那智の東光坊の阿闍梨祐慶という山伏が出てくる。これがワキ(脇)である。ワキはもちろん脇役であるが、観客の代表としてわれわれの知りたいことを里人に訊ねたりする。一曲が終結するまでのあいだその進行に重要な役割を演ずるのである。シテ(仕手)は素人が演ずることがあっても、ワキは常に専門家でなくてはならない。それくらい大事な役なのである。(中略)


 この東光坊の阿闍梨祐慶という人は那智からきたとはっきりしているが、ふつうはそうでない。名もなき旅の僧が出てくる。そして「これは諸国一見の僧にて候」という。諸国を遍歴放浪してあるく旅の僧、どこのだれともわからぬ僧が、無明の闇の中にいて、成仏することのない霊を呼び出し、さまざまな告白をさせ、後生を弔って、またいずこへともなく消えてゆくのである。能の幽玄性、彼岸の芸術といわれる所以はそういうところにあると、わたしは考えるのである。

(『大悲風の如く』149~150ページ)


 能舞台はシテ(仕手)が観客(見物人)に面(おもて)を向け、ワキ(脇)は観客に背を向けています。つまり、シテの正面から語りかけています。さらにいえば、ワキは背中で演じているのです。此岸(こっち)の人間であるワキは、彼岸(あっち)からやって来たシテの思い(ことば)を引き出し、それを聞き届ける役目を担っています。ワキ(見物人)の目の前で起こる出来事を、最後まで見届けるのがワキの使命(ミッション)です。


 ワキ方能楽師、安田登さんは、『ワキから見る能世界』(日本放送出版協会、2006年)に、「シテの思いを晴らすワキ」と書いています。


 シテは、その「ところ」に思いを残してこの世を去った霊魂だ。彼女は残恨の思いのために成仏できずに、幾度となくこの世に、特にある「ところ」に出現する。(中略)ワキは、シテの残恨の思いを受け止めて、その昇華作業(成仏)を助けるのだから能のワキは多くが僧だ。しかも漂泊の旅を続ける、一所不住の僧だ。

(『ワキから見る能世界』21~22ページ)


 また、ワキの最大の力である、霊であるシテと出会うという力も、自ら望んでシテに出会うのではなく、霊であるシテに出会いの相手として選ばれてしまうのだから、ちょっと力と呼ぶには抵抗があるが、しかしやはりワキの力であることには変わりはない。

(『ワキから見る能世界』42ページ)


 『おバカさん』でいえば、肺病もちのインテリやくざ、星野組の遠藤がこの物語(能舞台)のシテです。遠藤からどんなにひどい仕打ちを受けても、遠藤のもとを離れず、最後には(戦地で、遠藤の兄に罪をなすりつけて、刑死させた上官であった)小林にスコップで襲われた遠藤をかばい、身代わりになったガストン、「ノンノン(殺しちゃダメ)……エンドさん」と訴えかけるガストンは、この物語のワキです。


 「学徒出陣で南方の戦地に赴き、金井・小林ら上官の奸計によって無実の罪を着せられ刑死した兄の恨みを、拳銃によって晴らしたい」という遠藤の思いを聞き届け、最後には金井・小林を殺さずにすむところまで見届けるガストンは、遠藤が成し遂げたいと願った復讐劇のワキを演じています。


 ちなみに、銀行員の隆盛と、その妹・巴絵は、この物語の見物人を代表する語り手(ナレーター)です。


 自分は何もできない、ただ彼(遠藤)のそばにいて、すべてを見届けるガストン――、彼は何も聞こうとはしないのに、この人だけにはすべてを話してしまいたくなる――それは、遠藤さんが『おバカさん』(1959年)、『悲しみの歌』(1977年)、『深い河 ディープ・リバー』(1993年)などの作品で描こうとした、全知全能の神でもなく、奇跡を起こすちからもなく、いつも悲しげな眼差しを向ける、イエス・キリストの愛のはたらき、つねにワキを演ずるガストンの存在ではないでしょうか。


 2002年3月25日、320回(最後の月曜の会は、遠藤さんのテープ「文学における近代的自我」をみんなで聞いた)をもって、20年にわたる勉強会の幕を閉じました。


♠ マハトマ・ガンジーのことば 2

明日死ぬかのように生きろ。永遠に生きるかのように学べ(Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever.)

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