人間性への信頼を失ってはいけない
- mamoru segawa

- 2 日前
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原山建郎氏の新作『遠藤周作の「病い」と「神さま」』をお届けします。今回は、第三章の3『神の「沈黙」。誰にも人生の踏絵がある――遠藤周作』です。
3.神の「沈黙」。誰にも人生の踏絵がある――遠藤周作
『人生の踏絵』(遠藤周作著、新潮社、2009年→新潮文庫、2019年)は、1996年の帰天後、それまでの講演(口述)を活字化したものですが、その中から『沈黙』のテーマ(主題)、モチーフ(執筆の動機)にかかわる講演録を読みました。
同書の前書き「人生にも踏絵があるのだから」には、かつて戦争中から自分が弱いせいで何度も踏絵を踏みながら生きてきて、一時は心臓停止したものの奇跡的に回復した3回目の手術のあと、病床で浮かんだ踏絵のイメージから「自分が江戸時代のキリシタンだったら、間違いなく踏絵を踏んでいた。では、その時、どんな気持で踏むのだろうか」と考えるようになり、踏絵を踏んだ人々(転びキリシタン)について調べ始めた、と書かれています。
☆ なぜ神は黙っているのか
彼らの嘆きに声を与え、彼らに言いたかったことを少しでも言わせ、もう一度彼らを歩かせながら彼らの悲しみを考えていくというのは、政治家でも歴史家でもなく、これはやはり小説家の仕事です。
しかし、踏絵を踏んでしまった人、すなわちフェレイラとかキアラ(※実在の神父。ジュゼッペ・キアラ神父=『沈黙』ではロドリゴ神父)といった人たちのことはほんのわずかな記録しか残されていません。「臭いものには蓋をしろ」で、教会は布教史上の汚点として残さないし、日本側も日本側で幕府が禁じたキリシタンのことをいつまでも残しているわけがないから、みんな捨ててしまっている。まして、転んで罪に問われなかった人たちの記録など残していない。(中略)
なぜ、こんなに記録がないかと言うと、彼らが汚点だと思われて軽蔑され、見捨てられた人間だからです。けれど、まだフェレイラやキアラはかろうじてある。あのベタッとした脂足の跡を(※紙の)踏絵に残した人たちは、もう死んでから何百年も経ちましたけれども、彼らには何の記録もないのです。彼らは本当に声が無かったのか。歴史が沈黙し、教会が沈黙し、日本も沈黙している彼らに、もう一度生命を与える、それは小説家の仕事ですよ。
彼らも、殉教した人たちと同じように人間です。そして、平凡な私たちと同じように人間です。私たちは殉教した人たちを尊敬しますが、同時に私たちは転んだ人たちを軽蔑することはできない。そんな資格はない。(中略)
彼らも人間である以上、私は彼らに声を与えたかったのです。彼らを沈黙の灰の中から呼び起こしたかった。沈黙の灰をかき集めて、彼らの声を聴きたい。そういう意味で『沈黙』という題をつけました。併せて私は、そういう迫害時代に多くの嘆きがあり、多くの血が流れたにもかかわらず、なぜ神は黙っていたのかという、「神の沈黙」とも重ねたのです。
(『人生の踏絵』21~23ページ)
そして、「なぜ神は黙っているのか」という問いを立て、この小説に『沈黙』という題名をつけたのです。
「神の沈黙」についていえば、これは何も切支丹時代だけの問題ではありません。(中略)
私は入院の間、可哀想な子どもを何人も見ました。私も手術をずいぶん受けたけれども、私みたいにロクデナシが痛い目に遭うのはかまわん。かまわんこともないけどもさ、しょうがないと自分でも思いますよ。だけど、隣の部屋で五歳の子どもが私と同じぐらいの大手術を受けて、痛みで泣いているとね……私には、なぜそういうことがこの世の中にあるのかわからない。
なぜ神が黙っているのか、私には非常に苦痛だった。なぜ神はそういう不正に対して黙っているのか。不正というのは、法律とか政治の不正ではなくて、いわば生命の不正に対して黙っているのか。
繰り返しになるけれども、この「神の沈黙」というのが一つ。それと転んだ人間たち、沈黙のまま歴史の中に葬り去られた人間たちに命を与えたいという、その二つの気持から私は題名を決めて、主人公を選び取ったのです。
(『人生の踏絵』23~24ページ)
☆『沈黙』は禁書扱い、ノーベル文学賞も逃す。
ところで、1966年に発表された『沈黙』は、当時のカトリック教会から強い反撥があり、一時は禁書扱いされたといいます。たとえば、順子夫人は『明日の友』180号(婦人之友社、2009年)の対談で、作家・森禮子さんの「当時はカトリックの教会側からずい分非難を受けられたようですけれど」という質問に、夫・遠藤さんが出席しなかったミサで、「ああいうものを書かれると困る」と神父から言われたと述べています。
また、たとえば、作家の中村真一郎さんは、『遠藤周作のすべて』(文藝春秋編、文春文庫、1998年)の中で、『沈黙』がノーベル文学賞選考でどのように扱われたか、その経緯を書いています。
あの主人公の神父が、幕府のキリシタン禁制によって、信者たちのこうむっている過酷な拷問から救うために、踏絵を踏んで棄教するのを是認する作者の考え方は、日本人的仏教的な深い慈悲の心として、キリストの神としても許し得るものではないかと、私は作者の主張に共感を覚えたのだが、果たしてローマ内部の反撥は強く、「沈黙」は禁書のリストに加えられる危機を迎え、スウェーデンのノーベル賞委員会内にも、授賞反対の声が上がった。その時、強い支持を与えた英国の作家グレアム・グリーン自身が、正統派からは既に危険視扱いされていたのだった。
(『明日の友』「戦いと和解と」189ページ)
『沈黙』には、司祭であるロドリゴが、踏絵を踏む場面があります。
「ああ」と司祭は震えた。「痛い」
「ほんの形だけのことだ。形などどうでもいいではないか」通辞は興奮し、せいていた。
「形だけ踏めばいいことだ」
司祭は足をあげた。足に鈍い重い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖(きよ)らかと信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛み。その時、踏むがいいと銅板のあの人は司祭にむかって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。
こうして司祭が踏絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。
(『沈黙』218~219ページ)
☆ 踏絵を踏み、パードレ(司祭)を売ったキチジロー。
かつて銀貨30枚でイエスを売ったユダ(イスカリオテのユダ)のように、ロドリゴを奉行所に売った、日本版ユダことキチジローが、ある夜、踏絵を踏み、転んだ元司祭、ロドリゴの許を、彼を裏切り、彼を奉行所に売ったキチジローが訪ねてきて、戸口の向こうから告解(※コンヒサン:罪の許し)を与えてほしいと懇願するシーンが描かれています。
「わしはパードレを売り申した。踏絵にも足かけ申した」キチジローのあの泣くような声が続いて、「この世にはなぁ、弱か者と強か者のござります。強か者はどげん責苦にもめげず、ハライソ(※天国)に参れましょうか、俺のように生まれつき弱か者は踏絵ば踏めよと役人の責苦を受ければ……」
その踏絵に私も足をかけた。あの時、この足は凹んだあの人の顔の上にあった。(中略)
その顔は今、踏絵の木の中で摩滅し凹み、哀しそうな眼をしてこちらを向いている。(踏むがいい)と哀しそうな眼差しは私に言った。
(踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから)
「主よ。あなたがいつも沈黙しておられるのを恨んでいました」
「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」
「しかし、あなたはユダに去れとおっしゃった。去って、なすことをなせと言われた。ユダはどうなるのですか」
「私はそう言わなかった。今、お前に踏絵を踏むがいいと言っているようにユダにもなすがいいと言ったのだ。お前の足が痛むようにユダの心も痛んだのだから」
その時彼は血と埃でよごれた足をおろした。五本の足指は愛するものの顔の真上を覆った。この烈しい悦びと感情とをキチジローに説明することはできなかった。
「強い者も弱い者もないのだ。強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できようか」司祭は戸口にむかって口早に言った。
「この国にはもう、お前の告解をきくパードレがいないなら、この私が唱えよう。すべての告解の終りに言う祈りを。……安心して行きなさい」
怒ったキチジローは声を押さえて泣いていたが、やがて体を動かし去っていった。自分は不遜にも今、聖職者しか与えることのできぬ秘蹟をあの男に与えた。聖職者たちはこの冒涜の行為を烈しく責めるだろうが、自分は彼等(※自分を責める聖職者たち)を裏切ってもあの人を裏切ってはいない。今までとはもっと違った形であの人を愛している。私がその愛を知るためには、今日までのすべてが必要だったのだ。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。
(『沈黙』239~241ページ)
心ならずも踏絵を踏んだロドリゴに、〈沈黙の声〉は、「踏むがいい」と言ったのです。――『私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ』――それをイエスのことばとして聞いた(沈黙の声)を、日本にやってきた「白い人」である宣教師(司祭)の視点ではなく、日本の転びキリシタン・「黄色い人」のつらく苦しい人生を通して、「苦しみの連帯」としてのドラマを描こうとした遠藤さんの思い――
遠藤さんが、かつて最愛の母・郁さんに言われた「ホーリーであれ」という言葉は、「自分ひとりだけが聖(きよ)くあれ」という意味ではありません。「ホーリーであれ」という言葉は、弱き者、病む者、孤独や不安で人生に越望している者への「苦しみの共感・連帯」を指しているのです。遠藤さんが生きようとした「ホーリー」な思いが、いま、私の心の中で強く響いています。
♠ マハトマ・ガンジーのことば 7
あなたは、人間性への信頼を失ってはいけない。人間性は海だ。もし海の中の数滴が汚れていたとしても、海全体が汚れることはない。(You must not lose faith in humanity. Humanity is an ocean, if a few drops of the ocean are dirty, the ocean does not become dirty.)









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