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暴力によって得られた勝利は敗北と等しい

 原山建郎氏の新作『遠藤周作の「病い」と「神さま」』をお届けします。今回は、第三章の4 『人、その友のために死す。これより大いなる愛はなし。』です。

4.人、その友のために死す。これより大いなる愛はなし。


☆特攻機攻撃という名の「自殺」をはかる。


 『女の一生 二部・サチ子の場合』(新潮文庫、1986年)では、キリスト教信者である奥川サチ子に、同じクリスチャンである恋人の幸田修平が戦地に赴くに際して高木牧師あての手紙を託したのですが、その手紙はサチ子にあてた手紙でもありました。


 幼いころから教会で「殺すなかれ」と教えられてきた修平は、キリスト教では自殺を禁じているのですが、「たとえそれが戦争であれ、私が誰かを殺す以上、私は、他人の人生を奪ったという、その償いをせねばならぬ。だから私もまた、死なねばならぬ。そう思ったのです。それが私に特攻機攻撃に参加させた理由でした。そうでも考えねば、矛盾した心をどうにも仕方なかった」と、あえて特攻機攻撃という名の「自殺」を選んだ理由を述べるとともに、「米国人の基督教徒と日本人の基督教徒が、たがいに自分たちのほうが聖戦を行っているのだと主張して、ころしあっている――こんな矛盾があるでしょうか。それにおそらくそんな聖戦論を信じて今度の戦争に行った信者など日本には一人もいないでしょう。」と述懐しています。


☆これは戦争を早く終わらすための手段だ。


 一方の敵国であるアメリカの側では、広島・長崎に原子爆弾を落としたB29の発進基地のある南太平洋のテニヤン島で、(※おそらく原爆開発に関わったと目される)物理学者のノーマン・ラムに、(ヒロシマではおそらく5万人以上の日本人が一発のリトルボーイの炸裂で傷ついただろう。そして今度はファットおばさんがコクラの上空で爆発する……)とわかっていながらも、「そうしなければ、更に無数の人間が死ぬんだから。これは戦争を早く終わらすための手段だ。目的が正しければ手段も正当化される筈だ」と言わせています。


 しかし、また、長崎に原爆を投下したB29の搭乗員(通信兵)、ジム・ウォーカー中尉は、かつて長崎に暮らしたことがあり、サチ子とシューヘイの幼なじみでしたが、九州の小倉に向う(※悪天候のため、急遽、原爆投下地を長崎に変更した)途中の機上で、(個人の意思など無視した大きな力が今の俺をこの機内においているのだ。それは俺だけじゃない。後尾にいるバーンズ中尉だって、アッシュワース中佐だって、日本も日本人も知らないのだ。知らない者をどうして愛したり、憎むことができるだろうか。俺をこうさせた大きな力。ひょっとすると、修平やサチ子も同じものに巻きこまれているのではないだろうか)と、ジム・ウォーカー中尉に自問自答させています。


 長崎への原爆投下では、爆心地からの距離500メートルの浦上天主堂内にいた数十人の信者たち、そして二人の神父は即死。この地区に住んでいた約1万2000人の信徒のうち、約8500人が亡くなりました。


 この『サチ子の場合』は、その前作『女の一生 一部・キクの場合』(新潮文庫、1986年)――江戸末期から明治初期にかけて、浦上四番崩れと呼ばれるキリシタン弾圧のさなか、サチ子の祖母の従妹にあたるキクが生きて、そして死んだ、悲しい物語――の続編となっています。


 『キクの場合』は、キクの恋人、隠れキリシタンの清吉が捕らえられ流刑に会います。自分はキリシタンではなかったキクですが、一所懸命、獄中の彼を支えているうちに、無理がたたって労咳(肺結核)にかかり、雪が降ったある日、大浦の教会のマリア像の足もとで亡くなってしまいます。


 キリシタン(キリスト教徒)迫害について、欧米諸国から非難を受けた明治政府は信教の自由を認めざるを得なくなり、キリシタンたちは釈放されます。長崎に帰った清吉はキクをさがすのですが、彼女はもうこの世にはいませんでした。その後、年老いた清吉のもとへ、かつて自分たちを拷問にかけて、棄教を迫った憎っくき長崎奉行所の下級役人、伊東清左衛門から手紙が届き、やがて二人は再会します。


 明治政府により、キリシタン迫害の責任を押し付けられ処罰された清左衛門は、かつて獄中の清吉に会いにきたキクへのひどい仕打ちを告白し、その後も罪を重ねながらも、自分は洗礼を受けたと打ち明けます。


 清左衛門は自分がだまし傷つけたキクのことがいつまでも忘れられずにおり、また大浦教会のプチジャン神父から「神はあなたのような人を愛している」という意味のことばをかけられたことも忘れられずにいました。


 『キクの場合』における主人公は、もちろん清吉への一途の愛に生きたキクですが、この伊東清左衛門もまた、隠れたもうひとりの主人公ではないでしょうか。


 1865年(慶応元年・元治2年)、大浦天主堂での信徒(隠れキリシタン)が発見されました。しかし、それが浦上四番崩れ(1967年、慶応3年)のきっかけにもなったことで知られる、フランス出身の宣教師・プチジャン神父は、『キクの場合』でも実名で登場します。


☆囚人の身代わりを申し出たコルベ神父


 『サチ子の場合』では、敗戦前後の日本におけるサチ子と修平をめぐる物語と、ナチスによるユダヤ人虐殺が行われたアウシュビィッツ収容所でのコルベ神父の物語が、交互に語られるという構成になっています。


 この作品に登場するポーランド出身のマキシミリアノ・マリア・コルベ神父は、1930年(昭和5年)に長崎を訪れています。彼は日本での布教にたずさわったのち、1936年(昭和8年)に故国ポーランドに帰国した実在の宣教師で、その後、ガス室や飢餓室などユダヤ人抹殺の蛮行が行われたアウシュビィッツ収容所の囚人となりました。


 そして、自らも囚人であるコルベ神父は、餓死刑に選ばれて「私には妻子がいる」と泣き崩れる一人の囚人を見て、自ら「彼には妻や子があります。私が彼の身代わりになります、私はカトリック司祭で妻も子もいませんから」と、その囚人の身代わりを申し出た人物で、この作品でもコルベ神父の名前で登場します。


 コルベ神父の物語では、ナチス親衛隊の将校でアウシュビィッツ収容所の副所長、マルティンは、飢餓室に引き立てられていくコルベ神父の耳もとで、あたかも自問自答のような、教会での告解のようなことばを投げかけています。


 そして、このマルティンもまた、この物語におけるもうひとりの主人公なのです。


「コルベ神父」


 マルティンは兵士やミューラに聞えぬよう、そのコルベ神父にささやいた。


「この私は……地獄に落ちるだろうね」


 マルティンはその言葉を、この丸いこわれた眼鏡をかけた男をからかうために言ったのではなかった。とはいえ、自分の苦しみをうちあけるために口に出したのでもなかった。(中略)


「なぜ……そんなことを……おききになるのですか」


「言わなくても、わかっているだろう」


「あなたは……御自分のなさっている事が、心にお辛いのですか」


 マルティンは少し悲し気な微笑をうかべて、首をふった。


「もしそうなら、こんな質問はしないだろうよ。逆に私はこんなにたくさん殺しながら、何も感じないのだ。から元気で言っているのじゃない。本当に不気味なほど心は平静なのだ。もちろん、時折、発作的に気が滅入ることがある。憂鬱な気分に襲われることがある。しかしそれは一時的なもので、私の心は囚人の死体を見ても……何も感じない。おそらく君もまもなく死ぬだろうし、私は君の死体をきっと見ると思うが……その時も、何も感じないと思うよ。そんな自分が少し気味わるくてね、今の質問をしたのだ」(中略)


「私は」と神父はかすかな声で、「死ぬまで、あの男やあなたのために祈ります。あなたのためにも」


「私のため、祈る? 何を」


「御自分に絶望なさらないようにと」


 マルティンは肩をすぼめ哀しく微笑した。


 行列はもう第十三号棟に近づいていた。他の棟と同じ矩形の赤煉瓦の建物だった。


「さようなら」


 と神父は頭をさげ、かすれた声で言った。


「さようなら」とマルティンは答えた。「できるだけ、苦しみが長びかぬように望むよ」

(『女の一生 サチ子の場合』281~290ページ)


 もうひとつの、サチ子と修平の物語では、そのとき、まだ6歳だったサチ子が、大浦天主堂のミサに訪れたとき、コルベ神父から「サチ子さん、これ、あげます」と渡された、御絵(ごえ)と呼ばれる本のしおりのようなものに「人、その友のために死す。これより大いなる愛はなし」という聖句が書かれていました。


 このことばは、『キクの場合』、『サチ子の場合』だけでなく、戦争末期に九州大学医学部で行われたアメリカ人捕虜(撃墜されたB29搭乗員)に対する生体実験をモデルにした『悲しみの歌』にも通底する、大きく深いテーマであり、それぞれの作品に登場するプチジャン神父、コルベ神父、ガストンという役柄を通して、人々の苦しみに寄り添う「人生の同伴者」イエスの姿が描かれています。


 長崎への原爆投下では、爆心地からの距離500メートルの浦上天主堂内にいた数十人の信者たち、そして二人の神父は即死。この地区に住んでいた約1万2000人の信徒のうち、約8500人が亡くなりました。


 歴史の本には、先に紹介した「浦上四番崩れ」をもって、250年近くにわたった日本のキリスト教禁止(1587年に豊臣秀吉が発令した「バテレン追放令」以来の)政策に終止符を打ったと書かれていますが、アメリカ軍(B29)が行った長崎への原爆投下がキリスト教会の至近距離であったこと、天主堂にいた信徒全員が死亡したことから、これをキリスト教徒への受難事件であるとして、「浦上五番崩れ」と称するとらえ方もあるといいます。


☆アメリカ兵捕虜の人体実験をモデルにした『悲しみの歌』


 『悲しみの歌』(新潮文庫、1981年)では、戦時中に米軍捕虜の生体実験に立ち会った(当時は医学部助手)勝呂医師は、戦後になって、東京・新宿で堕胎もあつかう町医者として、医療費が払えない末期がんの年老いた患者を医院の二階に入院させるなど、赤ひげ医者として、ひっそりと暮らしていました。


 ある日、勝呂が生体実験に立ち会った罪でB級戦犯の裁判にかけられたことを調べ上げ、それを追求するためにやってきた、マスコミの折戸記者の質問に「断ろうと思えば……断れたんだが……」と答え、さらに「断る気持が結局、なかったんだね。ぼくに」とも答えます。


 そして、「死なしてくれー」と懇願する、末期がん患者の安楽死に手を貸すのですが、「オー・ノン、ノン。お爺さん、わたくーしの友だち。どうぞ、殺さないでください」というガストンの声が聞えてきます。


 最後には、睡眠薬を飲んで縊死するという自殺手段を選んだ勝呂医師の耳元に、やはり哀願するような「オー・ノン、ノン。そのこと駄目」「死ぬこと駄目。生きてくださーい」という、ガストンの声がありました。


「私が生きたまま捕虜を殺し、それからたくさんの生まれてくる命をこの世から消した(※堕胎を行う)医者だということも知っているのかね」


「ふぁーい」


「それを知っているなら、もう、とめないでくれ。(中略)あんたがいくらイエスだって、私を救うことはできない。地獄というものがあるなら、わたしこそ、そこに行く人間だろうね」


「いえ、あなたはそんなところには行かない」


「どうして」


「あなたの苦しみましたこと、わたくーし、よく知てますから。もう、それで充分。だから自分で自分を殺さないでください」(中略)


「オー・ノン、ノン、ノン」


「放っておいてくれ」


 枝に紐をまきつけながら、医師は二度、三度と咳をした。俺は死ぬのが怖ろしいから、睡眠薬の助けを借りねばならない、と考えた。ポケットの瓶をまた取り出して、一つかみの錠剤を口に入れた。

(『悲しみの歌』391~393ページ)


☆「わがこころのよくてころさぬにはあらず」


 勝呂医師はなぜ、断ろうと思えば断れたのに、米軍捕虜の生体実験への立ち合いを断れなかったのでしょうか。


 また、副所長のマルティンはなぜ、「私は地獄に行くだろうか」とコルベ神父に語りかけたのでしょう。その手がかりとして、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人の教えを、弟子の唯円がまとめた『歎異抄』の一節を紹介します。


 「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また、害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべし。」と、おほせのさふらひしは、われらが、こころのよきをばよしとおもひ、あしきことをばあしとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることを、おほせのさふらひしなり。(中略)「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」とこそ、聖人はおおせさふらひしに……

(歎異抄 第13条)


 ざっくりとした現代語訳で読むと―――あるとき弟子の唯円(ゆいえん)は、師である親鸞聖人から「そなたは私のいう言葉を信ずるか?」と問われ、「はい」と答えると、師はさらに重ねて「その言葉に相違ないか」と念を押した上で、さらに「それでは人を千人殺してみよ。そうすれば浄土に行くことが叶うぞ」と問われます。


 予想外の難問を突きつけられた唯円は、しどろもどろで、「師のお言葉ではございますが、千人はおろか一人であっても、私には殺すなどとは思いもよりません」と答えました。


 すると師は、「どんなことも、そのときのこころのままに行動するならば、浄土に行くために千人殺せと言われれば殺すことだってできる。しかし、一人であっても殺すことができないということは、業縁(※そのとき殺すように働く因縁)がたまたまなかったというだけで、それは自分に善意があったから殺さなかったわけではない。また、害を与えてはいけないと思っていても、百人千人を殺してしまうことがあるのだよ」と諭されました。


 師は「人はだれでも、しかるべき縁がはたらけば、どのような行いもするものである」と仰せになった……と。


☆「西部戦線異状なし、報告すべき件なし」


 ここで、11年前に書いた連載コラム『ブックセラピー』№33(『出版ニュース』2014年9月号掲載)で引用した『西部戦線異状なし』(レマルク著、秦豊吉訳、新潮文庫、1964年)の一部を、改めて読んでみましょう。


 第一次大戦下の西部戦線。ドイツの志願兵ボイメルは、砲弾穴に滑り落ちてきたフランス兵を剣で刺し殺すが、軍服にあった妻子の写真に、ボイメルの心は痛む。軍隊手帳には「ジェラール・デュヴァル、印刷業」とあった。ボイメルは死んだ男にこう言う。


 おい、戦友、今日は他人の身、明日はわが身だ。けれどももし幸い僕が助かったら、僕はこのわれわれ二人を打ち砕いたものに対して闘おう、それは君の生命を奪ったものだ。……それから僕にも、やっぱり生命を奪おうとしているものだ。戦友、僕は君に約束する。戦争は二度とふたたびあってはならない。

(『西部戦線異状なし』319ページ)


 この戦争がなければ、クラス担任の教師はボイメルを出征志願の数に入れず、デュヴァルも印刷の仕事をしていたはずでした。ボイメルが戦死した1918年一〇月某日、この日の司令部報告は「西部戦線異状なし、報告すべき件なし」であったといいます。


♠ マハトマ・ガンジーのことば 8

暴力によって得られた勝利は敗北と等しい。それは瞬間的だからだ。(Victory attained by violence is tantamount to a defeat, for it is momentary.)


コラム 3

遠藤さんの宿題、20年目の報告。


 1996年9月29日、訃報に接した私は言葉を失った。翌30日はドイツへの海外出張。葬儀ミサが執り行われた10月2日は、フランクフルトから安らかな帰天を念じながら、遠藤さんからの宿題がふたつ、心に浮かんだ。


 ひとつは、1982年4月、讀賣新聞夕刊に寄稿した遠藤さんのエッセイから始まった「心あたたかな病院」キャンペーンである。当時、『わたしの健康』編集部にいた私は、「心あたたかな病院を推薦してください」キャンペーンを立ち上げた。


 これは毎月の誌上で、読者から推薦された「心あたたかな病院」の名前、医師や看護婦さんから受けた「心あたたまる」エピソードを紹介するという企画だった。


 ところが、ある日の編集会議で「読者を装う病院関係者から、推薦(自薦)があったらどうするか」という意見が出されたので、その懸念をお伝えすると、遠藤さんはニヤリと笑って、次のように言われた。


「大いに結構じゃないか。最初は水増しの自薦でも、やがて心あたたかな病院になればよい。あたたかな太陽の光が、旅人のマントを脱がせるように」


 この5月で、結成34周年を迎えた遠藤ボランティアグループは、現在も九つの医療・介護施設での「心あたたかな病院」運動をつづけている。


 もうひとつは、月曜の会(日本キリスト教芸術センターの勉強会)のテーマ選びで、遠藤さんが常に意識した「日本というメタファー(暗喩)」である。


 2016年、築地本願寺(浄土真宗 東京ビハーラ「がん患者・家族語らいの会」)から「遠藤周作の話を聞きたい」と依頼され、『遠藤周作の「病い」と「神さま」――「心あたたかな医療」の源流をさぐる』という演題で話した。


 そのとき、遠藤さんの「西洋から伝えられたキリスト教はだぶだぶの洋服のようだ。もっと日本人の身丈に合う和服(キリスト教)に仕立て直す必要がある」という言葉から、やはり西洋からもたらされた日本の現代医療、インド・中国から伝えられた日本仏教の、だぶだぶ感を思い浮かべた。


 2016年3月、武蔵野大学仏教文化研究所の紀要に『和語(ひらがな)が啓く「ほとけ」の世界』〔The World of Hotoke(Buddha)as Revealed by the Native Japanese(Hiragana)Words〕を発表した。


 〈ひらがな〉で「日本というメタファー」をさぐる試み、70歳の青春を楽しむ。

(『周作クラブ』「からだ」番記者レポート(12))


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