遠藤さんが最後に書きたかった「私の『ヨブ記』」
- 2025年12月27日
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原山建郎氏の新作『遠藤周作の「病い」と「神さま」』をお届けいたします。今回は、第二章の4、遠藤さんが最後に書きたかった「私の『ヨブ記』」です。
4.遠藤さんが最後に書きたかった「私の『ヨブ記』」
☆ 「あなたは、ヨブと同じね」
いよいよ病状が悪化した遠藤さんを見舞ったときのことを、元聖心女子大学教授でシスターの鈴木秀子さんが、『文藝春秋special』(2009年季刊春号)に寄稿しています。
遠藤氏は、ヨブが体験したような辛い病を次々と背負いました。ついには、どんな痛みより耐え難いと言われる、全身の激しいかゆみにさいなまれました。
ヨブと似た状況に、順子夫人がふと洩らされされました。
「あなたはヨブと同じね」
その一言に、遠藤氏は目を大きく見開きました。私は遠藤氏の目に力がみなぎるのを凝視していました。それは深い感動の一瞬でした。
遠藤氏はぽつりと、「そうだ、私のヨブ記を書こう」と、ひとり言のようにつぶやきました。それ以降痛いとか、かゆいとか、ひと言も口にしなくなりました。病は昂じていましたから、かゆさはどんなに辛く、耐え難いものであったか知れません。
(『文藝春秋special』/2009年季刊春号)
「私の『ヨブ記』」を書きたい、遠藤さんはそう思っていたのです。旧約聖書のなかでも有名な「モーセ五書(『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『民数記』『申命記』」ではなく、「諸書」の三番目に出てくる『ヨブ記』にわが身を映して、「サムシング・グレート(神意)」をさぐろうとする、小説家としての壮絶な覚悟を知ることができました。鈴木さんはさらに、遠藤さんのキリスト者としての覚悟を、次のように受けとめています。
しかし遠藤氏は、ヨブの「だまって現実を受け容れること、神のみ旨は自分の病を癒すことではなく、苦しみを通して、変ることのない神の愛に導くことだ」の悟りを自らのものとしたのでした。それから遠藤氏の病状は悪化し、ついに遠藤周作著、『私のヨブ記』は書かれませんでした。しかし遠藤氏のこの世での最後の日々は、神の前におのれの小ささと、起こってくることを謙虚に受け容れ、神の愛を信じて耐え抜くことでした。
(『文藝春秋special』/2009年季刊春号)
鈴木さんの深い洞察に、もとより異論を唱えるつもりはありません。
しかし、キリスト教神学や西欧社会に衝撃を与えた『沈黙』を皮切りに、最晩年には東洋思想の源流に迫る『深い河』を著した小説家が書く『私のヨブ記』は、従順、堅信というよりはむしろ挑戦的で、無明と混沌のなかから、遠藤流「サムシング・グレート」を描き出す作品になったのではないでしょうか。
☆ 突然、暴風のなかから響く、主ヤハウェの大音声。
『ヨブ記』(関根正雄訳、岩波文庫、1971年)を読んでみると、「全くかつ直く、神を畏れ、悪に遠ざかっておる」ヨブの信仰を、神はさまざまな試練によって試すのですが、ヨブはことごとく堅信ぶりを証明してみせるので、こんどは悪魔(サタン)にヨブの財産を傷つけたり、からだを傷つけたりさせます。悪魔がたくみにヨブに悪腫をつけると、ひどい皮膚病に罹りました。
それを見かねた妻が、「あなたはまだ自分を全きものにしているのですか。神を呪って死んだらいいのに」というと、「お前の言うことは愚かな女の誰かれが言いそうなことだ。われわれは神から幸いをも受けるのだから、災いをも受けるべきではないか」と言って、決して神を恨まぬ、義人そのもののヨブでした。
しかし、「神は絶対に善人を苦しめることはないはずだ」、「罰せられるのは悪人だけだ」と説く三人の友人たちの慰めの言葉に、ヨブは自分がまったく悪行をはたらいていないのに、神がなぜ試練を与えたのか理解できない。もし自分が間違っているのなら、そのことをわからせてほしいと、神に懇願(「神への申立て」)しますが、なぜか神は「沈黙」したままでいるのです。
そしてヨブは、悪魔を非難するのではなく、神に絶望しかかったそのとき、最後に突然、暴風のなかから、主ヤハウェの大音声が響いてきます。
この無知の言葉をもって
経綸(はかりごと)を暗くする者は誰か。
君は男らしく腰に帯せよ。
わたしが君にきくから、わたしに答えよ。
(『ヨブ記』第38章、142ページ)
全能者と争う者はこれを批議しうるのか、
神を非難する者はこれに答えよ。(中略)
君はわたしの公儀を否定し、
わたしを非とし、自分を義(よ)しとするのか。
(『ヨブ記』第40章、152ページ)
神の臨在に圧倒されたヨブは、主ヤハウェに答えて、次のように言います。
わたしはあなたのことを耳で聞いていましたが
今やわたしの眼があなたを見たのです。
それ故わたしは自分を否定し
塵灰の中で悔改めます。
(『ヨブ記』第42章、160ページ)
三人の友人には神の訓戒が下され、ヨブは再び健康をとり戻し、もともと裕福だった財産も2倍に復活し、四代の孫にも愛されながら140歳までの長寿をまっとうしたといいます。
☆ いいことをしたら、いい結果が出るとはいえない
三浦朱門さんは、作家の安岡章太郎さん、カトリック司祭の井上洋治さんとの鼎談「信仰と文学」(『群像』1996年12 月号)の中で、次のように述べています。
安岡 彼はヨブ記を書きたいといっていただろう。その気持ちはわかる気がするな。
三浦 読者のためにヨブ記を簡単に説明すると、ヨブという非常に徳の高い人間がいて、神の御心に添うように一生懸命努力して、何も悪いことをしない。しかし、彼には次々に災いが降りかかってくる。それはなぜだろうか。いいことをしたのに、なぜそういうことになるのだろうかということについて、いろいろな神学的論争があるわけですね。最後に、これは明らかにつけ足しなんだけれども、神はヨブの心を見そなわして、失ったものを全部与える。しかし、それは明らかに嘘なんだね。つまり、いいことをしたらいい結果が出るといえないというのがヨブ記の宿命的な命題でしょう。神父さん、違いますか。
井上 そうですよ。
(『群像』1996年12月号)
たとえば「いいことをしたらいい結果が出るといえない」ことが、『ヨブ記』の宿命的な命題であるとするならば、ヨブと同じ苦しみを味わった遠藤さんは、『ヨブ記』における神の存在を、どのような物語として書いたでしょうか。
☆ 花びらは散っても 花は散らない
形は滅びても 人は死なぬ
『深い河』には、「彼等(ヒンズー教徒)の信仰によればガンジス河の聖なる水に浸かる時はすべての罪障は浄められ、死が訪れた時、その死体の灰を河に流されれば輪廻から解放されるのです」という日本人ガイドの説明があり、後半の「転生」(同書12章)では、木口と成瀬美津子が交わしたことばが出てきます。
「成瀬さん、印度人はこの河に入ると、来世でよりよく生き返ると思うているそうですな」
「ヒンズーの人たちはガンジス川を転生の河と言っているようです」
(『深い河』、320ページ)
ガンジス河の沐浴は、キリスト教の洗礼(浸礼)に似ています。浸水(全身を水に浸す)、灌水(頭に手で水滴をつける)など、洗礼の秘蹟(儀式)を受けることで、全ての罪(人類の原罪、自ら犯した罪)が赦されるとされています。
また、キリスト教では、祈りのことばに合わせて十字を切りますが、この十字架を表す英語「クロス(cross)=交差する・横切る」、つまり「×(交差)」には、「クロス・アウト(cross out)=線を引く・抹殺」という意味もあります。十字架は、すべての人間の罪を贖って磔刑にあったキリストの、この世における肉体的な「死」を象徴しています。
「死」の三日後、キリストはみごとに「復活」しますが、この「復活」はスピリチュアル(霊性的)な「再生」を象徴する、死んでも死なぬ、永遠の「いのち」です。
したがって、浸礼(洗礼)の儀式は、水中に身を沈めることで「(フィジカルな)肉体の死」を、そして水中から浮かび上がることで「(スピリチュアルな)霊性の復活」を意味している、そのように考えられないでしょうか。
『深い河』には、大津が早暁、ガンジス河のほとりで、一人だけのひそかなミサを立てる場面があります。これは、キリストの「死」と「復活」を感謝する祭儀なのです。
宋末五代の禅僧、玄沙和尚が弟子の僧と交わした問答を思い出しました。(カッコ内は原山の私訳)
玄沙因誤喫藥 遍身紅爛
僧問 如何是堅固法身
沙云 膿滴滴地
(玄沙和尚が誤って薬を飲み、全身が紅く爛れたときに、弟子が質問した。いつも人間は金剛不壊のからだであると説いておられるが、あなたの膿だらけの姿には、どこにも堅固法身を見出すことはできない、と。玄沙和尚は、次のように答えた。全身から膿が滴々として落ちている、この身このままに堅固法身である、と。)
これは禅問答なので、いわゆる正解というものはありませんが、たとえば、肉眼には不完全と見える「からだ」の奥に、私たちを生かしている「いのち」がある、それが玄沙和尚のいう「この身このままに堅固法身」なのでしょうか。
浄土真宗の僧侶であった金子大榮さんは、『意訳歎異抄』(全人社、1949年)のなかで、いつか今生の営みを終えるであろう、有限のいのちを「花びら」にたとえ、そして、その有限な「花びら」のいのちに別れを告げて、大いなるいのちの根源、虚空に還る、死んでも死なぬ無限のいのちを、「花」のいのちにたとえました。
花びらは散っても 花は散らない
形は滅びても 人は死なぬ。
私たちがいま生きている、日々の〈いのち〉の営みもまた、すばらしい奇跡の物語なのです。
♠ マハトマ・ガンジーのことば 4
目的を見つけよ。手段は後からついてくる。(Find purpose, the means will follow.)
コラム 2 揺るぎなき健康、揺らぐ生命。 話題の書、『鹿の王』(上・下巻、上橋菜穂子著、角川書店、2014年)が、第4回医療小説大賞受賞に続いて、2015年度の本屋大賞を受賞した。 上・下巻の副題には、〈生き残った者〉〈還って行く者〉とあり、謎の病に罹るが生き残った主人公のヴァン、致死的な病の治療法の開発に乗り出す医術師のホッサルを軸に、からだの中で起こっている出来事、たとえばウイルスや免疫系の働きなどをモチーフに、壮大な生命の物語が展開される。 受賞直後、NHK「特報首都圏」のインタビューで、上橋さんが語ったことばがすごかった。 「完全な健康は、死んでいると同じだと考えるようになった。私たちのからだには、たくさんの細菌が暮らしている」 上橋さんが示唆を受けた『漢方水先案内』(津田篤太郎著、医学書院、2015年)の一部も、番組内で紹介された。 まったく歪みのない状態、過不足なくバランスのとれた状態は病気から最も遠い状態ですが、そこでじっと留まっているのは、実は死んでいるのと同じです。「歪んで戻って。歪んで戻って」を繰り返していること自体が生命であり人間である、ということなのです。 東洋医学は「揺るぎなき健康」を目指したものではなく、「揺らぐ生命」から出発するものだったのです。 (『漢方水先案内』184ページ) なるほど、絶対に歪みのないからだはない、絶対に戻らないからだもない、歪み(病い)と復元(小康)の間を行きつ戻りつしながら「揺らぐ生命」という身体観は、魅力的である。 歪みといえば、「痛くない快い方向に動いて、からだの歪みをとる」操体法を提唱した医師・橋本敬三さんの著書に、『からだの設計にミスはない』(柏樹社、1978年)がある。 かつて、健康雑誌の記者だった私は、こんな問いを試みた。 「からだの設計にミスはない、と書かれていますが、なぜ人間は病気で死ぬのですか? なぜ病気は治らないのですか?」 橋本さんは、こう答えた。 「人は必ず治るように設計されている。ところが、治る前に死んでしまう人がいるんだね」 まるで禅問答だが、その手がかりを同書に見つけた。 その設計には、というか、自然の法則には、ある許容度みたいなものがあって、その範囲内で生活している限りは、何も心配することはないというわけです。 (『からだの設計にミスはない』31ページ) これもまた、健康とはある許容度(自然の法則)の範囲内で「揺らぐ生命」の営みである、という身体観に由来している。 もうひとつ、からだの中で暮らすたくさんの細菌や細胞小器官について考えてみよう。人間のからだを形づくる体細胞が約200種類、約60兆個(※2013年の研究論文で、約37兆個に修正された)であるのに対して、長さ8メートルの腸内(小腸と大腸)には、約100種類、約100兆個の細菌が暮らしている。 「内側にある外界」といわれる腸は、食べ物(外界)が通るパイプとしての役割とともに、ホルモンやビタミンの産生、免疫系の活性化をもたらす常在菌の棲み家(内側)になっている。しかも、直接外気と接する皮膚の体表面積が畳一枚分なのに対して、小腸と大腸の粘膜を押し広げた総表面積が、テニスコート一・5面分にもなるという。 また、60兆個の体細胞には一つの細胞に数百から数千個のミトコンドリア(別名「細胞の発電所」とも呼ばれる細胞小器官)が棲みつき、瞬時も休むことなく、からだの活動を支えるエネルギーを生み出している。 私たちの「揺らぐ生命」を内側から支える、心やさしい腸内細菌やミトコンドリアの存在なしに、一秒たりとも生きることはできない。 (Book Therapy no.41、『出版ニュース』2015年5月中旬号) |



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