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医学と人間学との歯車がうまくかみあっていない

 原山建郎氏の新作『遠藤周作の「病い」と「神さま」』をお届けします。今回から、第四章に入ります。1回目は1.『読売新聞の連載エッセイ「患者からのささやかな願い」』です。


四章 「心あたたかな医療」――患者のプロ、遠藤さんの願い


1.読売新聞の連載エッセイ「患者からのささやかな願い」


☆「医者が医学のプロなら、私は患者のプロです」


 1982(昭和57)年春に始まった「心あたたかな医療(病院)」キャンペーンは、その2年前、遠藤家に手伝いにきていた若い女性が骨髄がんで大学病院に入院し、余命2カ月という診断にもかかわらず、がんの治療とは直接関係のない採血が毎日行われることへの疑問がきっかけとなりました。


 担当医に「なぜ、命を終ろうとしている患者から、毎日採血をするのですか。これ以上、彼女を苦しめないでください」と遠藤さんは訴えましたが、「ここは大学病院ですから(今後の研究のために血液データをとります)」という答えが返ってきました。


 よしんば、大学の医学部に附属する病院では今後の治療に役立つ学問的データを集めるために、治療とは直接関係のない検査も必要であるという理由があったとしても、それが治療と関係のない苦痛を強いるのであれば……。遠藤さんはそのとき、多くの良心的な医師もこの矛盾にきっとぶつかっているに違いないと考えました。


 そして、1982年4月、遠藤さんは讀賣新聞社に「原稿を書かせてほしい」と申し出て、連載エッセイ「患者からのささやかな願い」を寄稿します。


「医者が医学のプロなら、私は患者のプロです」


 かつて「不治の病い」といわれた肺結核の再発で入院・手術を繰り返し、3度目の手術では死を覚悟したこともある遠藤さんは、過酷な闘病生活を経験した患者として、「心あたたかな病院がほしい」という切なる願いを書きました。


 ところで、現在の医療をとりまくきびしい状況のなかで、43年前(1982年)、「患者の代表」である遠藤さんが訴えた「ささやかな願い」は、2025年のいま、どこまで叶えられているでしょうか。


☆第1回 治療だけでなく 心のなぐさめも


●病人の孤独や苦しみに神経を使っていない

 ささやかな夢とは「心あたたかな病院がほしいなァ」ということにつきます。(中略)最近、御存知のように日本にも随分立派な病院がたちました。巨大な建物や完備した医療設備。それを見学したこともありますが、私は、そのたびごとに感心しながらも「何かが欠けている」――そんな気がいつもするのでした。何が欠けているのだろう。こんな立派な病院に来て、なぜ、何かがたりないと思うのだろう。すぐ思いあたりました。それはここで病気を治そうと試みているが、病気にかかった人の孤独や苦しみを慰める点ではほとんど神経を使っていない。つまり医者や看護婦さんの努力や善意にかかわらず、日本の病院そのものは重症患者の孤独感や絶望感にはあまり心をくだいていない気がするのです。


☆第2回 病院は当然でも 辛く響くのです


●尿検査の紙コップを持って歩くのが恥ずかしい

 ある大病院の腎臓検査室では患者に紙コップを渡して、これにトイレで尿を入れて検査室まで持ってきてくださいと言います。だが、その病院ではトイレから検査室までたくさんの外来患者の待っている廊下を通っていかねばなりません。大の男でも自らの尿を入れたコップを持って衆人のなかを歩くのは照れくさいのに、年ごろの娘さんならさぞつらいことでしょう。


 こんな事は一寸した思いやりで改められることです。それぞれ紙コップにマジックで名を書いてトイレのなかの一定の場所におかせ検査員がとりに行けばいいのです。一寸した手数で女性患者はつらい屈辱感から救われるのです。 


●患者の名前で呼ばずに、受付番号で呼んでほしい

 別の大病院の泌尿器科でこんな光景をみました。20、30分おきに待っている患者を看護婦さんがよびます。「山田さん、山田さん、山田花子さん」


 だれだって泌尿器科の診察を受けるのは恥ずかしい。だからたくさんの人のなかで顔を伏せて待っているのに、看護婦さんは「山田さん」だけでなく「山田花子さん」とはっきり姓名をよぶのです。その時、山田花子さんという患者はどんなに恥ずかしいい思いをするのか、看護婦さん、察してあげてください。これも「山田さん」のかわりに「3番さん」「4番さん」という受付番号で呼んでくれれば解決する問題です。


●診察中の会話が「中待合」に筒抜けです

 某大病院では診察している患者の声が待っている者にも聞こえてきます。人によっては自らの病気や色々な事情を見知らぬ人に聞かれたくない時もあるでしょう。ある職業の人(俳優などは)はたとえ病気でも秘密にしておきたい場合もあるのです。診察室と待っている人との間にはカーテン一枚しかないなら、患者の入り口と出口とは別の方向にしてやるぐらいの配慮をお願いしたいのです。


☆第3回 納得できる痛みなら 耐えられる


●なぜデータのためだけに苦しい検査をするのか

 私の知人で癌(骨髄ガン)であと2カ月という患者がいました。若い娘でした。そして先生たちも看護婦さんも実によくやってくださったと思います。


 しかし、見舞いにいくたびに、彼女は「検査がつらい、つらくてたまらない」と涙をこぼすのです。明日検査だというと、しれだけで夜が眠れなくなると苦しそうに言いました。彼女の癌は骨の癌だけにちょっと、体を動かしただけでも痛いのです。あと2カ月しか生きられないその娘に、なぜつらい検査を次々行うのだろうか。検査をやって治療の方法や見込みが発見できるならとも角、医師自身が絶望的だと思っている患者にまでなぜ痛い検査をおこなうのか――それが私にはわかりませんでした。おそらくそれは医師として研究データを集めるための検査だっただろうと私は想像しました。つまり彼女の治療のためではなくて、学問上、研究上のデータにその検査が使われたのだろうと思います。


●患者と心をかよわせる本当の名医

 私は名医とは技術のうまい人だけを言うのではないような気がします。むかし入院していた時、咽喉に血をつまらせ、ネブライザー(吸引器)をかけてもとれない老人の口に自分の口をあてて吸いとってやった医師がいました。


 その彼の献身的な光景を見て、大部屋の一患者が私にこう言いました。


「あの先生に手術をしてもらえるなら、たとえ失敗しても俺はかまわないなあ」


 こういう医師こそ私は本当の名医だと思うのです。なぜなら彼は医学の限界をこえて患者に人間としての心のかよいを与えたからです。結局、医学とは学問ですが、他の学問とは違うもの、人間が人間と交流する学問ではないのでしょうか。そこに医学の素晴らしさがあるのではないでしょうか。


☆第4回 重病人のための 家族用宿泊所を


●病院(と同じ敷地に)に家族の泊まれる場所がほしい

 たとえば面会時間です。今の大病院では面会は3時から6時ぐらいが普通です。これは現状ではまことにやむをえないのですが、病人(特に重症患者)が精神的に一番つらいのは夜なのです。闇のなかで一人ぼっちになって心の深淵や孤独とむきあわなければならぬ朝まで、あの長い時間には、看護婦さんも夜勤の人がいるだけです。この孤独なつらい時間こそ何とかしてあげねばならぬ時なのです。


 もちろん面会時間を夜にせよなどと無茶なことは言いません。しかし、たとえば大病院ならば重症患者の家族の泊まる場所ぐらい何とか設備できないでしょうか。重症患者の家族が三時から六時の面会時間で身内の者のそばから離れねばならぬのは何といっても「思いやり」に欠けているような気がします。(中略)それは遠隔の地から来る肉親にとっても手術のあと付き添う家族にとってもほしいものです。更に孤独な夜、たとえ一人でも病人は病院と同じ敷地に家族のだれかがいて、すぐ駆けつけてくれるという安心感だけで随分心が楽になります。孤独感が救われるのです。


●病院にチャペルや瞑想する部屋がほしい

 外国の病院に入院していた時、病院のなかにチャペルがありました。その病院は別にキリスト教の病院でもなかったのですが、そのチャペルには宗派をこえて色々な患者や家族が次々にきて、心の慰めをえようとし、また祈っていました。


 そういう部屋がある日本の大病院が存在するでしょうか。「そんなものは治療とは関係ない」とお思いになるでしょうか。


☆第5回 苦痛や悩み聞く 専門家がほしい


●患者の訴えに耳をすまして傾聴する

 神戸の外科医でユング派の心療家でもある河野博臣氏の「生と死の心理」という著書にじっさいにあった話が書かれています。


 20歳にみたぬ看護学生がはじめて一人の死にかけた老女の看護をしただい時、彼女は未経験の自分が何をしていいのかわからぬので、その老女の愚痴や訴えをいつもただ「耳をすまして傾聴」するしか仕方なかった。しかしその「心から聴いてあげる」ということで、その老女が今まで医師や看護婦にみせていたかたくなな態度が変わり、次第に心もしずまっていき、やがて安らかに死んでいったという話です。(中略)


 むかし入院した時、婦長さんからこんな話を聞きました。真夜中、モルヒネでも痛みのとまらぬ癌患者の手をしかたなくじっとにぎってやっていると、少しずつうめき声がしずまっていくことがあるという話でした。おそらくその時、その患者さんは自分の苦痛を知ってくれている人を看護婦さんの手を通して感じたのでしょう。孤独感がその時、少しずつなくなっていったのでしょう。


●大病院に傾聴ボランティアの導入を

 大病院にはこの「話し話を聴いてあげる」専門家の存在がこれから必要なのではないかと私はいつも考えます。そしてそれは、できるならば患者心理についての勉強をされたボランティアが望ましいような気がするのです。その人たちが患者の治療の妨げにならぬ範囲で自分の患者を受けもつようなシステムを大病院では作れないでしょうか。


 この人たちは重症患者のどんな話も聴いてやり、励まし、力づける仕事を受けもってもらいます。この人たちは重症患者に自分が最後まで人々から「あたたかくされた」という悦びを与える仕事です。この人たちは重症患者や長期患者がどうしても持たざるをえない孤独感を幾分でも(すべては不可能でしょうから)とり除くのが仕事です。そんな人たちが存在する大病院を、私はこのごろ夢見るのですが、それは不可能でしょうか。非常に実現がむつかしいでしょうか。その点についても、色々な人の御意見をきかせていただきたいと思うのです。


☆第6回 あたたかい病院 みんなで作ろう


●医学は宗教や文学と同じ人間学でもある

 5回にわたって書きたかったことは結局、医学は科学ではあるが、同時に医者と患者とが苦しみや死を通して人間対人間として接せざるをえないがゆえに、宗教や文学と同じ人間学でもあるということです。それなのに現代の医学や病院ではこの医学と人間学との歯車がうまくかみあっていない。かみあっていないどころか、時には「人間のための医学」であるべきものが「医学のための医学」になる傾向がますます強まっている。そこから日本の病院のなんとも言えぬあの荒涼とした面が生じるのではないかと私には思われます。

記事: Blog2 Post

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