開業ナース、同志としての歩み
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「残しておきたい7人のコラム」から、村松静子さんの「起業家ナースのつぶやき」を紹介しています。今回は「ともに創る幸せ2」です。

vol. 19
ともに創る幸せ2
2002-12-06
開業ナース、同志としての歩み その1

11月8日、開業ナース金貞希さん率いる社会福祉法人「EVERGREEN」主催の講演会がソウル市内の会場で開催された。私はこれまで口にしたことのない韓国語の特訓を受け、その席へ臨んだ。少人数から始まった開業ナースの第一歩は、私自身の当時の体験と重なり、実に親しみの湧くものとなった。
さらに、話し終えてからの質疑には時間を惜しむ情熱さえ感じた。
今回は、その場で私が話させていただいた内容を記す。

<受付> <打ち合わせ>
皆さん、こんにちは。「アンニョン ハシムニカ~」(拍手・笑)
私は日本から初めてこの地へやってきました。初めての旅が皆さんとの出会いになるなどとは考えたこともありませんでした。"出会い"って素晴らしいですね。この様な形でお会いできましたことに感謝するとともに、この出会いの場を提供してくださった金さんに心からお礼申し上げます。ここでは、皆さんとの出会いに感謝しながら、私が歩んできた道をお伝えする中に、私の考えや思いを絡ませて話させていただきます。そしてその後、皆さんと意見交換や出会いの喜びを語り合えたらと思います。
今から22年前のことでした。
当時私が看護師長として勤務していた日本赤十字社医療センターのICU(重症室)へ、今の私と同じ年齢の55歳の女性が非常に重篤な状態で運ばれてきました。
私のボランティア・チームには、医師からの紹介での訪問看護の依頼が増え続けました。訪問看護のボランティアには限界がある。そのように思った私は、この活動に終止符を打ったのです。3年1カ月が経過してからのことでした。しかし、それまで続けていた方たちへの訪問を中止することはできません。結局、大学の仕事は兼任するという形で、看護の業で起業し、ボランティア時代からの療養者4名については訪問を継続することにしたのです。1986年3月のことでした。
長い歴史のある看護という業で、それまでに無かった形を創っていくということは想像していたよりずっと大変なことでした。勇気がいりました。特にそれまで聖職ととらえられていた看護ですので、私の行うことを否定する看護師仲間も少なからず居りました。「看護を売るなんて、あなた気が狂ったの」とか「看護師が施設を離れたら、家政婦と同じなのよ」とも言われました。
正直、私の心は葛藤していました。
「私の行おうとしていることは間違っているのではないか」「いや、私たちの看護を求めている方たちがいるではないか」と、自分で自分を慰めたりもしました。「私の行おうとしていることが、もし間違っているのなら長く続くはずがない。今、必要だからする」葛藤しながらも私は決心したのでした。
その一番の応援団は私の家族と療養者を抱えた家族、そしてジャーナリストたちでした。看護師の私が行った在宅看護の起業化は日本では始めてということで、マスコミの後押しを得、次々に新聞や週刊誌・看護系雑誌に取り上げられました。
新聞に記事が載ると、次の日は電話が鳴りっぱなしだったのを覚えております。小さなワンルームマンションの一室で、電話とポケットベル・コピー機・ワープロ・医療用カメラと聴診器・血圧計・吸引器など最小限の必需品と、24時間稼動するのは私のほかに1人、あとは乳飲み子を抱えたナースが1人という2.5人の組織は確実に動き出したのです。しかし、現実は甘くはなく厳しいものでした。
組織運営のためのお金の問題がついて回りました。確実に出て行くワンルームの事務所の部屋代・電話やポケットベルなどの通信費や光熱費・コピー機とワープロ機のリース代など、人件費をどんなに削っても月々必ず支払わなければいけないものがあったのです。当然のように、半年も経たないうちに、運営資金は底をついてしまいました。そのとき私は始めて気づきました。
どんなに貴重な理想を掲げても、それが継続できないのなら何の意味もないのだということです。そこで改めて自分自身に問いかけました。「私に何ができるか」「私は何をしたかったのか」「どうすれば継続できるか」何度も何度も繰り返し問いかけました。そして、「私は一人の看護師としての看護を買っていただき、評価してもらおう。看護に関連した教育をも買っていただこう。評価してもらおう。それを続けていると、いつの日かきっと‘必要な時に、必要な看護を、必要なだけ提供できる在宅看護システム’をつくることができるはずだ。いつの日か、年齢問わず、どんなに重症の方でも、家で過ごしたいという人がいたなら、それが叶えられるようなシステムをつくりたい」と、思いが固まっていったのです。そして改めて、「在宅での看護実践と看護教育の2本柱で真っ向から勝負をしよう。たとえ独りになっても10年は続けよう」と決心したのでした。
私が訪問看護以外にまず手がけたことは一般市民向けの「心温かな医療と看護を語り合う集い」と看護師向けの「これからの看護を語り合う集い」でした。各新聞社の無料広告欄に載せていただき、看護系の雑誌にも載せてもらいました。このような時、ジャーナリストの後押しがあるというのは心強く有り難いものでした。それを見て多くの方が集まりました。
私は心を込めて訴えました。
今何が必要なのか、私が考えていることはこんなことであるということを訴えたのです。それらに続けて行ったことは、在宅看護を共に進めてくれるヘルパーを養成することでした。その頃日本では、シルバー産業は儲かるのではないかという風潮が流れ、それらを模索する大企業が続出していたのです。
私が行ったことを知った企業は儲かる仕事を目当てに次々にやってきました。そして小さな一部屋での働きを見ると、ふんぞり返って言いました。「どうやったら儲かるんだね」と。それは、私を馬鹿にしたような大きな態度でした。
私の会社はその後も、経営的には決して楽ではありませんでした。
しかし、その考えは着実に取り上げられ、社会的にも広がっていきました。それは実に楽しいものでした。高齢化する日本としても欲していた時期でしたのでそれらと重なって、それをリードする形で進んで行ったのだと思われます。
そして日本では老人保健法が改正され、『老人訪問看護制度』というのが制定し、1992年の4月から訪問看護を行う看護師組織に医療保険がつかえるようになったのです。俗に『訪問看護ステーション』と呼ばれるものですが、それは私たちの組織がモデルになったと言い伝えられております。その後規制緩和が続き、年齢制限枠もはずされ、現在その『訪問看護ステーション』は全国に5000箇所以上も存在するようになりました。また看護教育カリキュラムの中にも「在宅看護論」が位置づけられましたし、2000年度からは介護を社会全体で行おうという動きから『介護保険制度』が制度化されました。訪問看護ステーションではその介護保険も適用できるようになったのです。
規模やその体制など、まだいくつもの問題を抱えているのが実情ですが、ここ10年で、日本の状況は大きく変わってきております。
私の会社は現在、2つあります。1つは「日本在宅看護システム社:Expert Home Nursing Systems Japan,Inc.」、1つは「看護コンサルタント社:Nursing Consultants,Inc.」です。そして2つの会社をまとめているのが研究・企画を全面的に行っている「在宅看護研究センター:Expert Home Nursing Research Center」です。結局は3つあることになるでしょうか。そのほか、地域で「在宅看護研究センター」の考えを引き継いで、事業を興している仲間も居り、今後さらに強固なネットワークを築いていこうと進めているところです。

<講演中> <ちょっと一息>
私は看護の道を歩んで35年、看護教育の道も平行して歩んで30年経ちましたが、今改めて思っていることがあります。それは、現実を見つめ将来を見据えて、社会にとって本当に必要なことを見出すことが必要であるということ。また、看護師に求められていることを認識して行動することが必要であるということ。さらに、看護師にもできる、看護師が行わなければならない新しいものを創って実施していくことが重要であるということです。それらのことは看護師に与えられた責務だと私は思うのです。看護を職業にしている私たちは、看護サービスについて世の中に正しい形で知っていただけるようにしなければならない。そうすることは、看護の質を高めていく上で大切なことなのだと実感させられました。
看護の心は世界共通です。そんな中で出会った金さん、そして皆さんとも大きな輪をつくっていけることを願っております。
「カムサハムニダ~」



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