心あたたかな「日常の風」
- 3月24日
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原山建郎氏の新作『遠藤周作の「病い」と「神さま」』をお届けします。今回は、第六章の『5.「病院の日常」、「患者の日常」、心あたたかな「日常の風」』です。
5.「病院の日常」、「患者の日常」、心あたたかな「日常の風」。
2016年12月1日、東京・世田谷の国立成育医療研究センター(旧国立大蔵病院)講堂で開催された、ドナルド・マクドナルド・ハウス誕生15周年記念「ボランティアフォーラム」に参加しました。
同センター構内には、2001年12月、ドナルド・マクドナルド・ハウス〔病気と闘う20歳未満の子どもとその家族のための滞在施設〕第1号としてオープンした「せたがやハウス」(23部屋)があります。フォーラム終了後、同施設を見学しましたが、1日の利用料は1000円+リネン料、受付業務やアメニティ管理などはすべて地域のボランティアが担っています。
かつて私が健康雑誌の記者だった1982年4月、作家の遠藤周作さんが讀賣新聞に寄稿した「患者からのささやかな願い」から生まれた「遠藤ボランティアグループ」の創設時、遠藤さんから補佐を命ぜられ、現在は同代表を務める私は、メモ帳を片手に「ボランティアフォーラム」に参加しました。
パネルディスカッションでは、マギーズ東京センター長・Aさん(看護師)、もみじの家〔在宅で医療ケアを受けている小児患者と家族が、短期間くつろいで滞在できる施設〕ハウスマネージャー・Uさん(元NHKアナウンサー)、S病院ボランティアコーディネーター・Tさん(看護師)、公益財団法人ドナルド・マクドナルド・ハウス理事・Nさん(元大学病院医局長)の4人がパネリストとして登壇し、それぞれ専門家ならではの鋭い視点と幅広い提言がありました。
しかし、私たちボランティアに参加する一般市民からすると、少し気になる言葉もいくつかあったのです。パネルディスカッションに登壇された皆さんは、もちろん「患者ファースト」の方々であると思いますが、そのことを十分理解した上で、私が感じた言葉をいくつか挙げてみましょう。
たとえば、〈マギーズ東京〉は〔ガンになった人とその家族の悩み相談に応じるボランティア施設〕ですが、シンポジウムの司会者がその紹介の中に「がんを宣告された患者さんが……」ということばを使いました。
このような場合、私がかつて所属していた健康雑誌であれば「告知された」という表現を用います。直線的で鋭い宣告(患者に判決を言い渡す)より、曲線的で柔らかな告知(病名や内容を患者に説明する)のほうが望ましいと思うのですが……。
さすがに、センター長のAさんは「ガンの告知を受けて動揺している患者とその家族の相談」という言葉を適切に使っていました。近年では、インフォームド・コンセント(説明と同意)、病名の告知など、患者の疑問や不安軽減に配慮したことばが用いられています。
また、病院ボランティアを受け入れて四十年の歴史を持つS病院、ボランティアコーディネーターのTさんは、看護職退職後にボランティアコーディネーターに就任し、これまで20年以上にわたってボランティアスタッフの募集・採用・教育を担当された方ですが、施設管理者や医療専門職ではない私たちには、いくつか「ちょっと」気になるフレーズがありました。
○ボランティアの人たちは素人なので、病院スタッフの下請け、補助、メッセンジャーをお願いしている。
○これまでの「ただ使われる」ボランティアでなく、これからは「もっと考える」ボランティアであってほしい。
この二つのフレーズは、患者の治療・回復・心身保護のためには、もちろん「当然のこと」です。長年、医療専門職にあったTさんは愛にあふれた方であり、その言葉も愛と善意から発しています。つねに〈病院の日常〉を念頭に考えるべき立場では、病院のボランティア活動が「病院の診療活動に迷惑をかけてはならない」という安全管理のベクトルが働くのは、これもまた「当然のこと」だと思います。しかし、「素人なので」という文脈からは、「ただ使われる」→「もっと考える」という、ボランティアのあるべき姿は見えにくいのです。
ボランティアに参加する私たち自身も、ふだんは「病院の日常」ではなく、いわば「患者(自宅での生活)の日常」で暮らしています。急な病気で入院した患者は、突然放りこまれた「病院の日常」に戸惑い、その不安を募らせます。
「病院の日常」と「患者の日常」を考える手がかりに、遠藤周作さんにまつわる二つのエピソードを紹介します。
☆ 「人間とは悲しいものだな」
施設の長い廊下を歩いている時、(※遠藤さんを案内する看護婦さんが)ある患者さんを呼び止め、病気(※ハンセン病)で変形しているその手を自分の手でマッサージしながら、「○○さんは、この手でいろいろ手伝って下さっているのですよ」と私に紹介した。その時、当の年配の患者さんの顔にふと目をやった私は、その何とも言えずつらそうな目の色にはっとして、悪いことをしたなと感じた。(中略)
「人間とは悲しいものだな」と思った。彼女は患者に対する愛情からそうしたに過ぎないかも知れないが、患者がその時受ける屈辱感、つらさにこの看護婦さんは気付いていない。(中略)愛していればすべて正しいと信じている。しかし、善意や愛情をかけられたりする者の苦しみもあることを、かける方は気づいてやらないといけないと思う。
(『日本歯科東洋医学会』vol.8、47ページ。遠藤さんの講演抄録)
☆ 「病院の日常」感覚、「患者の日常」感覚。
(※あるとき、遠藤さんが入院中お世話になった外科の看護婦さん三人を、お礼の食事に招待して、レストランに向かう途中)急にネコが道路に飛び出してきて、車にはねられました。タクシーがネコを轢いたのを見た看護婦さんがキャーッと悲鳴をあげたので、「いつも手術場で出血を見慣れているはずでしょう」と遠藤さんがたずねると、「ここは手術場は病院ではありませんから」と答えたのだそうです。
白衣を着た手術場という「病院の日常」の中では緊張している看護婦さんも、私服に着替えたタクシーの車内という「患者の日常」の中では当然のように悲鳴をあげたのです。
(『からだのメッセージを聴く』、153ページ)
つまり、日常的な神経と病院の中での神経とでは、そのときの立ち位置、役割によって感覚が異なるわけで、たとえば「病院の日常」感覚で接していると、医療スタッフが気づかぬうちに、「患者の日常」感覚に無用の苦痛や屈辱を与えていることも、案外多いのではないか、と遠藤さんはいうのです。
フォーラムの最後、国立成育医療研究センター理事長の五十嵐隆さんが、まとめとしての講演『ボランティアが医療に与える影響』で「病院スタッフ以外に支えてくれる人が、病院にいてくれることが「患者とその家族」の心の支えになっている」と、病院ボランティアを評価されたことばに、とても励まされました。
パネルディスカッションでも、何人もの方が「ボランティアは病院のなかに〈社会の風〉をもたらす」と発言されていました。
慢性病で長期に入院している患者さんが、「患者の日常」感覚での気持ちを聞いてもらえるのは、身の回りの世話をしてくれる付き添いのおばさんなのだそうです。お医者さんや看護婦さんですと、それを患者のわがままとしか受け取ってもらえず、「問題患者」のレッテルを貼られることが多いものです。これが付き添いのおばさんだと、「病気のことはよくわからないけど、あんたも大変だねえ」といって、そのまま受け止めてくれるというのです。
患者の愚痴や嘆きを、じっと「聞いてあげる」ボランティアは、この付き添いのおばさんのように、目に見えない空気のような役割がはたせればいいな、と思うのです。
(『からだのメッセージを聴く』、155ページ)
私たち遠藤ボランティアグループは、ある日突然、心ならずも「患者の日常」から切り離され、いまも〈病院の日常〉で暮らす患者とその家族に、心あたたかな〈日常の風〉をお届けしたいと思っています。
❤ マザー・テレサのことば 8
孤独や自分が必要とされていないという感覚、これ以上の貧困はありません。(Loneliness and the feeling of being unwanted is the most terrible poverty.)


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