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ラポールがある野の花診療所

  • 5月23日
  • 読了時間: 26分

更新日:6月6日

 原山建郎氏の新作『遠藤周作の「病い」と「神さま」』をお届けします。6月6日に、第7章に「ラポールがある野の花診療所。――徳永進さん」を追加しました。

<追加02>第7章 6、ラポールがある野の花診療所。――徳永進さん


☆ ターミナル・ヒーリング――患者とその家族から「つたわるもの」。


 3年前、文教大学オープン・ユニバーシティ(社会人向け教養講座)『遠藤周作の遺言――「心あたたかな病院」がほしい その1』第3回講座では、肺結核や腎臓病などで長く苦しい闘病生活を経験した遠藤さんの切実な思い「患者をこれ以上苦しめないでください」をとりあげました。


 1982年4月、遠藤さんは、読売新聞夕刊の連載エッセイ『患者からのささやかな願い』の①(第1回)に、『病気の「治療」だけでなく、患者に「心のなぐさめ」も』と題する一文を寄稿しています。

 

 最近、御存知のように日本にも随分立派な病院がたちました。巨大な建物や完備した医療設備。それを見学したことも何度かありますが、私は、そのたびごとに感心しながらも「何かが欠けている」――そんな気がいつもするのでした。何が欠けているのだろう。こんな立派な病院に来て、なぜ、何かが足りないと思うのだろう。すぐに思いあたりました。


 それはここでは病気を治そうと試みているが、病気にかかった人の孤独感や苦しみを慰める点ではほとんど神経を使っていない。つまり医者や看護婦さんの努力や善意にかかわらず、日本の病院そのものは重症患者の孤独感や絶望感にはあまり心をくだいていない気がするのです。

(『患者からのささやかな願い』①、讀賣新聞1982年4月1日夕刊)

 

 その2カ月後、こんどは『中央公論』1982年7月号(中央公論社)にエッセイ『日本の「良医」に訴える ――私がもらった200通の手紙から』を寄稿し、その訴えのひとつに「心療科の医師をスタッフに加えてほしい」と書きました。


 患者の「心のなぐさめ」がほしいという、遠藤さんの強い「願い」が感じられます。

 

 私は外国の病院に入院したことがあるが、そこには小さいながらチャペルがあったり、小ホールが設けられていた。チャペルでは患者や患者の家族だけでなく、医師や看護婦が患者と共に祈る姿をみた。私はその時、医師と患者とのなんとも言えぬ人間的な結びつきを感じたものである。(中略)


 これからの病院が巨大化されると同時に、医師の専門が細分化され、診断も機械化されるにつれて、患者はますます孤独になっていくだろう。そして今までよりも、長期患者や重症患者の心的な不安が起きてくるだろう。その時、心療家がスタッフに加わることが必要になるような気がしてならない。

(『中央公論』1982年7月号、137ページ)

 

 文教大学オープン・ユニバーシティの配布資料「追加資料」の中で、やはり遠藤さんの『日本の病院に、教会にあるようなチャペルや「瞑想室」がほしい』の願いを叶えた「日本の良医(グッド・ドクター)」がいる病院のひとつ、鳥取市にある野の花診療所(徳永進院長)を紹介しました。


 それまで鳥取赤十字病院内科部長だった徳永さんが、2001年、大借金をして開設した2階建ての有床診療所には、「瞑想室」が1階と2階にあります。ホームページには「二つあり。1階に茶室風、2階に牢屋風。いずれも自分の日々、人生をふり返り、祈り、感謝し、謝(あやま)る。」と書かれていました。


 同じホームページの自己紹介で、「死ぬのはつらいだろうなー。だったらその時、その横に立っていて、手を握ってあげる仕事をしよう、と思ったのが高校2年生の時でした」と語る徳永医師は、「心あたたかな『良医』のひとりです。


 『野の花診療所まえ』(徳永進著、講談社、2002年)の内容紹介(講談社webサイト)に、19床のホスピスベッドのある「野の花診療所」を開設するまでの期待と不安が記されています。

 

 「こんな医者がそばにいてくれたら、笑いながら死ねるだろう」――谷川俊太郎

 

 野に咲く花のように自分らしく生き、自分らしく死ねる。/そんな願いを実現したくて、診療所をひらくまでの日々。/胸の奥があったかくなって、きっと心が楽になる!/どんな食堂ができ、どんな料理つくってくれるんかなあ、/どんな看護婦さんがやってきてくれて、どんなケアをしてくれるんだろう、/瞑想室の光はどこから射し込むんかいなあ、図書室にはどんな本が並び、夜中でも本読んでいる人がいるんかなあ、/職員の給料、ちゃんと払えるんかいなあ~、それより何より、日常の診療の腕上げんといけんぞう。

……「野の花診療所のこと」より抜粋

講談社webサイトの内容紹介

 

 ところで、私は一九八〇年に『わたしの健康』編集部に異動し、遠藤さんの『治った人、治した人』シリーズ(四年間の連載企画)を担当していましたが、じつは1982年秋、当時は勤務医(鳥取赤十字病院内科部長)だった徳永さんをお訪ねして、翌1983年1月号から1年間、連載コラム『形のない家族』の執筆を依頼したのです。


 連載終了後は、他の雑誌掲載のエッセイを加えて、主婦の友社からの出版を考えていましたが、1990年に『形のない家族』(思想の科学社)という書名で出版されました。同書「あとがき」に、私の名前(謝辞)も載っています。

 

 野の花診療所が2001年にオープンして間もなく、私が鳥取県倉吉市で午前の講演を終えたあと、ちょっと時間ができたので、徳永さんに電話して、鳥取駅から徒歩約15分、野の花診療所に立ち寄りました。


 すると、久しぶりの挨拶もそこそこに、徳永さんが「ちょうどよかった。原山さんに頼みたいことがある」と切り出しました。がん終末期で入院しているおばあちゃまの「足指をもんであげてほしい」といいます。私はすぐに徳永さんと病室を訪れ、おばあちゃまが寝ているベッドの足元に立ちました。


 おばあちゃまの足の指を、私の親指と人差し指で挟み、一本ずつ順番に、足の爪から押し込むようにもんでいく――お腹がゆれる、顔の皮膚がゆれる、両肩もゆれる、両側にある手の指先もゆれる。足指からの小さなゆれが、からだ全体にさざ波のように伝わっていく――足の指をもみながら、「この指には、何年くらいお世話になっていますか」と尋ねると、「もう80年以上です」と答えます。おばあちゃまは梨農家の主婦で、働きづめの人生だったといいます。


 さらに、「こうして足の指をもんでもらったことはありますか」と尋ねると、かぶりを振って「いいえ、これが初めてです」と言い、寝たままの姿勢で小さな手を合せました。両足の指10本を15分ほどかけてもむ。もませていただいている私の手の指に、おばあちゃまのからだの温かさと、たましいの鼓動が、かすかに伝わってきます。このおばあちゃまは、あと数週間で天国に旅立たれる。思わず、私の胸の奥に熱いものがこみあげました。


 「原山さん、ありがとう。何よりのプレゼントでした」


 徳永さんから謝辞を受けながら、むしろ与えられたこの機会こそが、私への神さまからのプレゼントだと思った瞬間なのでした。

 

☆ターミナル・ケアとターミナル・キュアを、病態に応じて組み合わせるホスピス・ケア。


 「ターミナル・ケア(Terminal care)」ということばがあります。それは、がんなどの病気で余命わずかとなった人や、認知症や老衰の人たちが、その人らしい残りの人生時間を穏やかに過すために行われる医療・看護的ケア、介護的ケアのことです。または、手術や投薬などの治療(キュア)による延命よりも、病気の症状などによる苦痛や不快感をやわらげ(緩和し)、心の平穏や残された生活の充実を優先させるケア(看護や介護)のことをいいます。


 もうひとつ、「ターミナル・キュア(Terminal Cure)」もあります。一般的には、これ以上の「延命治療(ライフ・サポート・トリートメント:Life Support Treatment)」を行わない「ターミナル・ケア」の対義語(反対語)と受けとられることが多いことばです。しかし、徳永さんは自著『こんなときどうする?――臨床のなかの問い』(岩波書店、2010年)のなかで、終末(ターミナル)期にも、患者の病態に応じて必要となる治療(キュア)があると書いています。

 

 がんの患者さんにがんと告げない、という時代があったことを知らない医師や看護師が増えているだろうと思う。(中略)


 ぼくが(※京都大学)医学部を卒業したのが1974年。がんの末期の患者さんのケア、ターミナルケアという言葉が広がり始めるのが1980年ごろ。日本に初めてのホスピスができたのが、10年後の1990年である。


 医師ががん病巣を手術する。大きなキュアは手術という行為。手術前後に抗がん剤投与や放射線治療を行うこともある。これも大きなキュア。それだけのことをしても、がんを治療しきれず、がんが進行することは多い。医師はキュアという考え方しか持っておらず、再手術、無効が予想されての再びの抗がん剤投与、無意味な輸血、無意味な人工呼吸使用、無意味な心マッサージ、などを指示するしかなかった。


 そんな時、キュアを末期に強制するのはよくない、という声が臨床から上がった。声をあげた人たちは主に看護師たち。その声をすくった優れた臨床医たちが、一つのうねりを作っていった。ターミナルケアという言葉が臨床に、大切な言葉として定着していった。(中略)


 ここで、ターミナルキュアという言葉を記しておこうと思う。がんの末期はキュアでなくケア、(中略)その強調から、ターミナルケアという言葉が生まれた。そして広がった。でも、臨床で働いていると、がんの末期であっても、医師の持つ技術で患者さんの苦痛が和らぐ、ということが起こってくる。代表的なものは、放射線科医たちが持っているinterventional radiology(IVR)の技術だろう。細くなった胆管、尿管などにステント(※狭くなった部位の内腔を広げるためのチューブ)を挿入し、流量を確保する。始まりはキュアが多い、終わりはケアが多くなる。でもキュアもかなり終末まで登場しうる。入り混じる。どうしてこの図(※文中に引用されている「キュアとケアの【割合を白と黒のドットで示した】図」)に、臨床で働いている人たちは気づかないのだろうと思う。

『こんなときどうする?――臨床のなかの問い』198~201ページ

 

 そこで、野の花診療所では、ターミナル・ケアとターミナル・キュアを臨機応変に組み合わせたホスピス・ケア(Hospice Care)を行っています。徳永さんが定義する「ケア」と「療法」もまた、ナルホド!と、素直に納得できるものでした。

 

 19床のホスピスケアのある有床診療所を始めて3年と8カ月が経った。亡くなられた人は296人。手術をするわけでも、積極的な化学療法をするわけでもない。中心は緩和ケア。それでも、CTや胃カメラや超音波は用意し、高カロリー経静脈栄養法や胸膜癒着術、たまに化学療法、紹介でIVRや放射線療法などはしている。ターミナルキュアという言葉を臨床では宝物と思っているからだ。(中略)


 ケアという言葉が大きくふくらむ。疼痛ケア/症状ケア/睡眠ケア(枕ケアを含む)/入浴ケア。いや療法とつけた方がいいかもしれない。音楽療法/思い出療法/瞑想療法/笑い療法/園芸療法/絵本療法/花火・蛍療法/お祭り療法/叫び療法/外出療法/旅行療法/家族団らん療法/作品展療法などなど。


 治るということを求めるのではなく、自分の人生を振り返ること、別れざるを得ない家族に言葉を残すこと、残されている日々を今までと同じように普通に生きて行くことなどが大切に思え、そのことを求めるようになる。ケアは囲まれた長方形(「キュアとケアの図」)の中に留まることができず、宙に飛び跳ねていく。

『こんなときどうする?――臨床のなかの問い』202~203ページ

 

 徳永さんが看護師さん向けに行う講演会では、臨床での疑問や患者さんへの思いを書いたメモをもらっています。看護師さんの3000通あまりのメモと徳永さんのコメントでまとめた『ナース to ナース』(徳永進著、関西看護出版、1999年)のなかに、日々の臨床で奮闘する看護師さんたちが感じた、患者とその家族のことばや動きが「つたえること」、それらから看護師さんの心に「つたわるもの」を読みとることができます。

 

*008

 初めての家族の死。畳の部屋でふとんに横たわり、祖父はゴロゴロ喉を鳴らしていた。そばで本を読んでいる私に、伯母が「じいちゃん息しとるか、みときやー」と……。リズミカルに鳴っていた咽喉が聞えなくなったのも気づかず、本に見入っていた小学生の私は静かになってしまった部屋にふたたび伯母の声で我に戻り、うろたえた。「はよう、みんな呼んできー」。伯母の声に泣きながら畑仕事をしている家族を呼びに走った。なぜそばで看てなかったのかと、悔やまれる。

 

 小学生の時の死、よーく焼き付いている。そういう身近な死の経験から、患者さんの死への援助が始まるのかもしれない。次のも、別の意味では、そういうことだろうか。

 

*009

 昨年の夏、看護婦という立場から患者の家族という立場に立ち、家族間で来る日も来る日も治療方針あるいは治療環境をすったもんだ話し合った結果、私の意見に対し父がひと言、「お前は医療者の立場からものを言っている」。それから先、何も言えなくなった自分がくやしかった。

『ナース to ナース』「あつあつ」16~17ページ


*029

 胃癌。50歳代の男性。若い頃、家族を捨て家出をしたため、病床についても家族の見舞いはなし。朝から昏睡、昼に声をかけたところ目をあけ、「ありがとう」と言って息を引きとられた。今も忘れることのできない静かな死だった。


*030

 症状がひどく、「人殺し」「あっちいけ」といっていた患者さんが、死ぬ直前じっと私の目を見て、「ありがとう」といって死んでしまった。


*031

 20歳のお母さん、3カ月の子供が亡くなり、解剖の承諾をされました。私が卒後初めて死亡確認からお見送りまでした方でした。そのときのお母さんの言葉が、「親になるってつらいんですね」でした。             

 (『ナース to ナース』「忘れられない死」36ページ)

 

 ここでは、ターミナル・キュア、ターミナル・ケア、ホスピス・ケアというフレーム(枠組み)をはるかに超えて、終末期患者とその家族だけでなく、ケアにあたる医療者(医師や看護師)の人生も含めた「ターミナル・ヒーリング(終末期の人生まるごとの癒し)」の世界が、たましいの奥底、大宇宙の中心に向かって広がっています。

 

☆ラポールをもてる人、自然体の良医、徳永進さんのホスピス・ケア。


 やはり、文教大学オープン・ユニバーシティ『遠藤周作の遺言――「心あたたかな病院」がほしい その1』第4回講座では、何度もの手術と長期入院を余儀なくされた作家、遠藤さんが『中央公論』(1982年7月号)に寄稿した『日本の「良医」に訴える』のなかから、次の六項目をとり上げました。

 

1.医師は診察の折、患者の病気の背景にはその人生を考えてほしい。/2.患者は、普通の心理状態にないことを知ってほしい。/3.無意味な屈辱や苦痛を患者に与えてくださるな。/4.入院している患者の、夜の心理をもっと考慮してほしい。/5.心療科の医師を、医療スタッフに加えてほしい。/6.患者の家族の宿泊所や休憩所がほしい

 

 これらの訴えは、患者のプロを自認する遠藤さんの実体験から出たものだが、それはキュア(治療)やケア(看護・介護)される側(患者とその家族)から、患者をキュア・ケアする側(医師や看護師をはじめとする病院スタッフ)に向けられた「してほしい」という「願い(要望)」の視点です。そしてたとえば、患者をキュア・ケアする側(医師や看護師、病院)からの視点については、やはり読売新聞(1982年4月1日夕刊)に寄稿した『患者からのささやかな願い』のなかで、ある医師から聞いたことばを紹介しています。

 

 私の知っている一人の医者は医師に風あたりが強かった一時期、こう、しみじみと私につぶやきました。


 「でもねえ、遠藤さん。医者のよろこびがわかりますか。それは自分が治療した患者が全快して、家族に連れられ退院していくのを窓から見おろしている時です。――ああ、よかったというあのよろこびは、医師でないと味わえないのですよ」

私もそうだろうと思いました。

(「患者からのささやかな願い」第1回、『讀賣新聞』1982年4月1日夕刊掲載)

 

 この医師のいう「医者のよろこび」そのものにはもちろん、異論はありません。しかし、その病気が「治る」患者の主治医ではなくて、それが「治らないかもしれない」がんや重い慢性疾患の患者の主治医であったとしたら、この医師がつぶやく「医者のよろこび」ではなく、「医者のかなしみ」になってしまうのではないでしょうか。


 かつて「全快(病気の治癒)」こそが医師(近代医学)の「勝利」であり、「死(究極の悪化)」は医師(近代医学)の「敗北」だ、と考えられていた時代がありました。しかし、いま、「治らないかもしれない(がんや難病)」患者のターミナル・キュア&ケアを「よろこんで」引き受けてくれるホスピス・ケア(大きな病院のホスピス緩和ケア病棟に入院するのではなく、医師や訪問看護師が自宅に訪問し、患者の苦痛状態をやわらげたり、精神的支援や環境整備を行ったりするケアのこと)が求められる時代になりました。

 

 さきに紹介した『形のない家族』(徳永進著、思想の科学社、1990年)を、『わたしの健康』の連載コラムを依頼した1983年から43年後のいま、もう一度、その原稿を読み直してみると、その当時、すでに「キュア・ケアする側」から「キュア・ケアされる側」に向けられる、いわば一方通行の医療(キュア・ケア)ではない、患者とその家族だけでなく、医療者(医師や看護師など)も含めて、まるごと包み込んだ「形のない家族」という、医療におけるラポール(患者と医療者の間に形成される信頼関係)の世界が広がっていたことがわかります。

 

 43年前といえば、遠藤周作さんが1982年に提唱した「心あたたかな病院(医療)がほしい」キャンペーンが始まった翌年であり、私の心はいま「あのとき、遠藤さんと徳永さんとの対談をやっておけばよかった」という後悔の念に駆られています。


 たとえば、徳永さんがいま「野の花診療所」の2階(19床のホスピスベッド)と午後からの訪問診療という、二本立てホスピス・ケアこそが、遠藤さんが求めていた『日本の「良医」』が実践する「心あたたかな病院(医療)」のひとつである、ということにいま、改めて気づかされました。

 

 ここしばらくの間に、徳永さんの著書を23冊(4冊の蔵書+市川市図書館から17冊+松戸市図書館から2冊)、一気に読んでみました。その1冊、1冊、その1行、1行から、「がんなどの治らない病い」を抱えた終末期の患者、その家族との間に「心あたたかなラポール」を築いた医師、看護婦などの医療者が双方向に向き合う、ターミナル臨床における徳永さんたち医療チームの緊迫した息づかい、やさしい思いが伝わってきました。


 徳永さんの著書二23冊のなかから、私の心を揺さぶったエッセイを、いくつか抜粋してみましょう。


 『話しことばの看護論――ターミナルにいあわせて』(徳永進著、看護の科学社、1988年)の「ラポール」を読む前に、「ナースコール」の回数によっては、悪魔にも天使にもなるという「あとがき」の話から……。


 話し言葉は耳にやさしく響きながら、意外とことの本質や本音をズバッと表現できるのだな、と感じた。


 「誰でも天使なんですよ、ナースコールが三回までなら。でもほんとは、悪魔なんです。ナースコールが10回もなったら。臨床にいると、そのことが誰にもわかる」。

(『話しことばの看護論』「あとがき」223ページ)

 

ラポール

 神にはなれなくても、目の前に立っているあるいは横たわっている患者さんに、できるだけのことをしてあげたいと医療者であるぼくらは思いますね。でもそのことがなかなかできないんですね。今まで見も知らなかった人に対して、ただ病気をしているという理由だけでは、ぼくらの心も素直に流れていくというわけにはいかない。


 でも不思議なことに、素直に流れない心がスーッと流れることがあるんですね。病室でゆっくりと座って話し合ったということがきっかけになることもあるし、地縁や血縁ということもあるし、一目見てということもあるし、ひとつの言葉でということもあるわけですね。そして何がきっかけであっても、それからは、お互いの心が流れ合って、いい雰囲気ができあがっていく。末期医療のときなどには、そのことがとても大切になります。


 その心の流れ、信頼、そのことをラポールというのだそうですね。ラポールがもてるかどうか、医療者はそのことを問われているのでしょうが、いまだに問いとして心のなかにあり続けています。目の前にいるどんな人もラポールをもてる人が神なのかもしれませんね。目の前にいるどんな病人にもラポールをもてる人を医療者と人びとは呼ぼうとしているのかもしれませんね。でも、医療の場で実際に働いている者としては、病棟の患者さんのうちのたとえひとりに対してでもラポールを感じたいとおもっているというふうにしかいえませんね。


 病棟に50人の患者さんがいるとしたら、50分の1の神になることができたらというのが本音ですね。「愛されることなしに、愛することができる」、まるで片思いの定義のようにも思える定義が、神を定義しているところが面白いですね。医療者は神に一番近い所で、毎日仕事をしているのかもしれませんね。ただ、そのことに気がつかないだけでね。

(『話しことばの看護論』第一章「臨床現場に光る形容詞」26~27ページ

 

 やはり『話しことばの看護論』に、医療者が患者さんを励ましながら、じつは励まされたのは医療者だったというパラドックス(逆説、逆理)、たとえば、「急がば回れ」「負けるが勝ち」という、矛盾するように見える二つのことが、じつは二つがどちらも正しいことであるように、医療者はターミナルの臨床を通して「成長」するのだ、と書かれています。

 

成長する

 患者さんを励ましながら、結局、教えられ、支えられ、励まされたのは医療者であったというパラドックスを大切にする。そういうパラドックスのなかで医療者は成長する。


 「成長」というのは、ぼくらのテーマです。成長というのは身長が伸びることではなく、年齢が増すことでもないですね。成長とは何でしょうね。ひとつは、受容力が伸びることでしょうか。現場でいろいろなことが起こっている、そのことの全体がみえて、その人が悲しい顔からうれしい顔に変われるようにしていける力というのが、ぼくたちの成長でしょうね。


 成長を可能にするのは何かというと、ほかの人とのかかわりが必須ですね。部屋を閉め切ってベッドに寝ていて五〇年たって自分は成長するのかというと、それでは成長しない。人間がヒヤシンスと違うところでしょうね。成長するためには窓を開け、戸を開けて外に出て人と交わっていく。つまり国でいえば貿易でしょう。貿易をしない限り、ぼくたちは成長しないと思います。そのためにずい分傷つき、痛めつけられるということになるかもしれない。そしてもうひとつ、成長というのは自分が自分を面白いというふうに思えていくことでしょうね。成長というのは医療者のそしてケアそのもののテーマなんです。でも、成長とは何かというと、やっぱりぼくには全体像がまだとらえられていないっていう感じですね。

(『話しことばの看護論――ターミナルにいあわせて』「ターミナルの言葉」22~24ページ

 

 『看取るあなたへ――終末期医療の最前線で見えたこと』(徳永進ほか著、河出書房新社、2017年)には、 高校時代から気に入っていた、中国の詩人、陶淵明の漢詩「人生無根帶 飄如陌上塵」(人のいのちなんて、しっかりとした根があるわけでもなく、ちょっとした風にも散ってしまう路上の塵のようなものさ、の意)の無常感に惹かれた徳永さんが、「死生観」と「死生感」は違う――と書いています。

 

「死生観」と「死生感」


 死生観が全くないわけではないが、自分でもそれって当てにならない、と思う。死生観って、戦争を体験せず、平和の中を生きることを可能にさせられた他人まかせの世代(※徳永さんは1948年生まれ)にとっては、そんなもんではないか。ただ、死生感となると少し違ってくる。43年間臨床にいて、目の前の、一人一人が違う死から、それぞれのことを感じ、教えられてきた。しっかりとした死生観を持っておられるが故に、揺らぐことなく、死をくぐり抜けられた人もある。死生観なんぞおくびにも出さない人でも時に飄々と、時に堂々と死をくぐっていかれる人もある。それぞれの死が一つ一つのことを教えてくれた、と思う。そのことでぼくの死生感は養われた。養われはしたがそれで何かが出来上がった、ということにはならなかった。


 臨床での死に出会うたびに、違ったことを教わる。その都度、死生感は違った世界に足を踏み入れる。いや、違った世界へぼくを運んでくれる。その繰り返しだ。死生観は確立されないまま、死生感が海の中の海草のように揺らぐ。それでいいか。どのいのちにも、死ねる力があるのは、ほんとうのことだから。

(『看取るあなたへ』「死生観と死生感」127ページ)

 

 いちばん驚いたのは、『野の道往診』(徳永進著、NHK出版、2005年)にあった――教会や神社ではなく、本来は医療施設である野の花診療所で挙げた、終末期患者の息子の「結婚式」――もちろん、これは正真正銘の実話です。


 安田ツトムさん、59歳。肺がんで骨転移、肝転移、皮膚転移がある。彼の奥さんから、「北陸の小松にいる二男に好きな人がいて、結婚を決めているのですが、夫のいのちはそんなに長くないと思うので、早めに挙式をしたいと思っています」と相談を受けた徳永さんは、「確かに早いほうがいい」と答えます。


 その2週間後の日曜日、野の花診療所2階にあるラウンジに、安田さんの奥さん、小松から二男の運転する車でやってきたフィアンセとその両親と姉が集まって、結婚式の日取りを相談しています。


 徳永さんは、「今日が結納の日なので、8月下旬の大安の日曜日、大丈夫でしょうかと、奥さんから相談を受ける。そこまで安田さんが生きていられるのは難しい、と思った徳永さんは「なるべく早いほうが…」と答えました。


 すると奥さんは、「もう少し皆で相談してみる」と、みんながいるラウンジに戻りました。


 ぐるっと回診をすませた徳永さんが、再びラウンジに戻ってみると……、

 

「シーツの道」


 「先生、決めました。結婚式、きょうすることに」と奥さん。「どこで?」と聞くと、「ここで」と先方のご両親。「いいですよ」とぼく。「何時から?」と尋ねると、昼食を皆で一緒にして、貸衣装屋さんが友だちだから、「2時、午後2時から」と奥さん。


 このニュースはすぐに詰所のナースに届いた。「えっ、結婚式? ここで? すごーいい! すてき! よーし、やろ、やろ」


 看護師さんたちの表情は一変した。動きが急に機敏になった。ティッシュペーパーで花飾りをつくり、ラウンジのカーテンをきれいにアレンジし、テーブルクロスを用意し、花吹雪をつくり、ロウソクを用意し、そうだ、ピアノの演奏者に連絡してと、そうそうウエディングケーキを注文しなきゃあ、それにお花、これは先生に頼んじゃおっ、てな具合だった。いつもこれくらい動いてくれたら、なんて思わないわけじゃなかったけど、みんな、勝手に豹変していった。(中略)


 2時が来た。


 ピアノ曲がラウンジから流れ始めた。日曜日で見舞客が多く、廊下はまるで祭の日の沿道のようなにぎわいとなった。結婚行進曲が流れ始めた。エレベーターのドアがあいた。純白のウェディングドレスの花嫁。灰色の縞模様に身を固めて好青年の新郎。看護師さんがベッド用シーツを折りたたんで、何枚かつなぎ合わせたバージンロードを二人が歩って来た。花吹雪が舞う。ラウンジにはすでに安田ツトムさんがベッドのまま運ばれて待ち受けている。

曲がりなりにも神前結婚。三々九度も「誓いの言葉」もケーキ入刀もあった。みんなで『夏の思い出』を歌った。新婦のご両親も突然の結婚式に感謝の気持ちを述べられた。看護師さんたちは異口同音に述べた。「この場で、この時を共に過ごせることがうれしい」。いじわるなぼくは、「いつもはどうだっていうんだよ!」と独り言。


 ツトムさんが聞き取りにくい声だったがお礼を一言。「みなさん、ありがとう。これからも、未熟な、二人を、よろしく」。会場、そして沿道から拍手が起こった。花束を手に新郎新婦は再びバージンロードを歩き、そしてエレベーターに乗らず、お父さんの病室へ向かった。


 先に病室に戻っていた安田ツトムさんは泣いていた。安田さんの目に、息子と花嫁の美しい姿はくっきりと残ったようだった。


 不思議な結婚式だった。自然に発生した結婚式。二人が歩いて自然にできたシーツの道。二人はシーツの道を忘れないだろう。安田ツトムさん、10日後、他界。

(『野の道往診』「シーツの道」99~103ページ

 

 遠藤周作さんが「病院はチャペル(新しい教会)である」と願った、光り輝く天上の世界に向って、看護師さんたちがベッド用シーツを折りたたんで作った、真っ白な「シーツの道」は、どこまでも真っすぐにつづいていました。

 

●「患者さんの話を聴く医療」


 ある病院で短い研修をさせてもらい、教えられたことがある。たとえば咳と痰と熱が出て、胸部X線写真で異常な陰影があり、肺炎と診断したとする。


 豊かな日本には数えきれないくらいの抗生物質があふれている。次々に、なるべく多くの起炎菌に効く強力な抗生物質が製造され、また輸入される。新しい抗生物質が発売されるたびに今までのものは古い薬になってしまうような気がした。たったそれだけの理由で、時代に遅れないよう、高価で豊かな、どんな菌にでも効くとやらの抗生物質を投与した。


 その病院の指導医師は、まず、「なぜその抗生物質を選んだのか」と問う。「何となく」とか「今、流行っていますし」などと答えようものなら、即座に「君は、患者の痰を自分で染めて見たか? どういう菌がその感染症を引き起こしたかを自分の目で確かめもせずに、高価な薬を投与するのか。それを使ったために耐性菌ができて、他に仕える薬がなくなったときのことを考えていないのか」と問われた。


 まず痰の染色を習い、それから菌の識別を習った。そのようにして菌の種類をほぼ決めたあと、初めてどの抗生物質を第一選択とするのか、第二選択は何かという具合に決めていくのだった。たいていは、安い抗生物質で決着がつくことが多いのだった。


 指導医は、「まずこの患者の話をよく聞け」と言う。そして患者の息づかい、指の形を見、胸部にさわる。「汗をかいているかどうか。どの呼吸補助筋を使っているか。心尖拍動(しんせんはくどう)(※心臓が収縮する際に、最も先端の部分=心尖部が胸壁にぶつかることで生じる、胸の表面のふくらみや振動のこと)はどこかを調べよ」と言う。それから聴診器を取り出し、呼吸音をていねいに聞く。理学所見をどれだけうまく取ることができるかどうかこそが医者の技術として大切なのだ、と。


 必要が生じれば、気管支ファイバーをやり、経皮的生検や肋膜生検もし、血管撮影や胸部CTもできる豊かな設備や技術を片方に用意しながら、患者さんの話や、聴診器一本のほうをより大切にしている医療思想に感銘した。


 豊かな設備、医療器械にすぐ頼ってしまい、患者さんの話や、理学所見のなかで病気をとらえることをおろそかにする医療は、きっと貧しい医療なのだろう。

(『形のない家族』「豊かさという病因」126~129ページ)

 

 ここに抜き書きした、徳永さんの「〈自分史〉ハイライト(実話)」はどれも、たとえば新前医師であれば、医師免許を取得したあと、研修医として「臨床のノウハウ、医療技術の習得、適切な患者対応」を学ぶなかで、また、あるいはベテランの医師であっても、日常の医療現場で迅速な対応を迫られる、たくさんの出来事ではないでしょうか。


 徳永さんに医療者としての「〈自分史〉ハイライト」があると同じように、すべての医療者にも、それぞれの「〈自分史〉ハイライト」があるということを、ぜひ知ってほしいと、こころから願っています。


 また、これらの著書を読む行為(読書)は、話し手(著者・徳永進)に、取材記者(聞き手)である私が、何回かのインタビューでまとめた原稿を、編集長に提出する前に、もう一度読み直す、最終の編集作業そのものだと思いました。


コラム 8 90年の漆黒の闇、深い悲しみの底。


 先月、遠藤ボランティアグループで、東京・東村山市の国立ハンセン病資料館を見学した。(中略)1907(明治40)年に成立した旧らい予防法は、1996(平成8)年に廃止された。わずか18年前のことである。


 今回の見学では、ハンセン病者を終生・強制によって隔離(※岡山県瀬戸内市にある国立療養所長島愛生園)した90年にもおよぶ漆黒の闇、深い悲しみの底を覗いた。


 徳永進さん(鳥取市・野の花診療所院長)が四十人のハンセン病者から聞き書きした「傾聴」の記録、『隔離――らいを病んだ故郷の人たち』(ゆみる出版、1982年)はすでに読んでいたが、その後、「終章」を加筆して文庫化された『隔離――故郷を追われたハンセン病者たち』(岩波現代文庫、2001年)を市川市中央図書館から借りてきた。「私は鬼でした」では、戦後間もなくらい(ハンセン病)を発症し実家に戻された女性が、戦地から戻った夫が再婚することになって、自ら「母を捨てる」覚悟を、わが子に告げる。


 私はつらかったけど決心して息子に言いました。(中略)


 「私はあなたを育ててきたけど、あなたのほんとのお母さんではない。あなたのお母さんは病気で遠くの病院に長いこと入院しておられた。今度帰ってこられるその人(※離婚した夫の再婚相手)が、あなたのほんとのお母さんだよ」


 私は鬼でした。心が張り裂けようでした。私はそれっきり親子の縁を切りました。

(同書、131ページ)

 

 母であることを奪われ、瀬戸内の小島に強制隔離され、永久に冷凍された心。


 いまその思いは、次の言葉で語られている。


 戦前・戦中・戦後と外の社会ではいやなことばっかりでした。だから今でも外に出ようという気になりません。私はずっと島(※離婚した夫の再婚相手)にいます。故郷に待つ人は、誰もいないですから。

(同書、133ページ)

 

 約3時間の見学プログラムには、ガイダンスビデオの視聴、展示解説室の見学、ハンセン病回復者である佐川修さん(語り部)の講演があった。ビデオのインタビューでは、男性回復者が受けた強制断種のいまわしい体験を語りながら、術前に陰毛を剃る看護婦の含み笑いがいまも聞こえると、顔をゆがめた。語り部の佐川さんは、屈辱のハンセン病史、故郷から棄てられた回復者の悲しみを語り、小刻みに両の肩を震わせた。


 人間とは、悲しいものだ。


 「故郷の誰も迎えに来なかった。結局、故郷に帰ることができなかった」と彼らは言っている。収容から五十年以上経った今も、故郷に帰れないという意味で、彼らは今なお見えない隔離のなかにいる。

(同書、324ページ)

(『出版ニュース』2014年6月中旬号、Book Therapy no.30)


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