認知症の人の物語
- 5月23日
- 読了時間: 20分
更新日:6月6日
原山建郎氏の新作『遠藤周作の「病い」と「神さま」』をお届けします。6月6日に、第8章に「花びらは散る、花は散らない。散らない花を生きる、認知症の人の物語」を追加しました。
<追加01>
第八章 4、花びらは散る、花は散らない。散らない花を生きる、認知症の人の物語。
☆ 医学的「認知症」の時代から、考える「認知症ケア」の時代へ
「認知症ケア」について関心があった私は、かつて『トランネット通信』(出版翻訳会社)に寄稿した『医学的「認知症」の時代から、考える「認知症ケア」の時代へ』(連載コラム「編集長の目」№133)の中で、「認知症の人との超コミュニケーション法(Simple Techniques for Communicating with People with“Alzheimer’s-Type Dementia”)」と前サブにある、アメリカのソーシャルワーカー、ナオミ・フェイルの著書『バリデーション(The Validation Breakthrough)』(藤澤嘉勝監訳、篠崎人理・高橋誠一訳、筒井書房、2001年)に書かれた「認知症に対するナオミ・フェイルの仮説」――私たち人間が人生の異なった段階を生きていくときに、それぞれの段階で解決しなければならない「人生の課題」があると仮定して、人によってはその問題を解決しないまま人生の最後を迎えることがある。そのような人は人生の最終章に、4つの解決のステージ、つまり①認知の混乱、②日時、季節の混乱、③繰り返し動作、④植物状態、それぞれの解決ステージを迎える――を紹介したことがあります。
今回はそのコラムの一部を紹介しながら、「認知症の人」の本当の姿を考えてみたいと思います。
たとえば、アルツハイマー型認知症の診断には、頭部MRI(磁気共鳴画像診断)やPET(陽電子放射断層撮影)で脳組織の萎縮、大脳皮質への老人斑沈着などの検査を行うことがよく知られていますが、物忘れ(記憶力障害)、現在の日時認識の混乱(見当(けんとう)識(しき)障害)など初期の認知障害は徐々に進行し、徘徊行動、火の消し忘れ、大声で騒ぐ、攻撃的行動、妄想がはげしくなるなどの「問題行動」へと発展していきます。
そして、深刻な「問題行動」を起こすまでに「病状」が悪化すると、家族の介護は困難(家庭崩壊の危機)となり、介護老人福祉施設などに入所させるほかはないというのが、現代では「常識」とされています。
また、認知症患者の「問題行動」への対応策については、多くの解説書がある。ネット上にも「問題行動の予防と対応」のアドバイスが載っています。しかし、そのほとんどが、【患者の行動を否定せず、一応、受容的な態度を取りつつ、感情の高ぶりが治まるのを辛抱強く待つ】など、その場の混乱を乗り切るためのテクニック(対症療法)となっているのです。
しかし、『バリデーション』のなかで紹介されている「バリデーションセラピー(超コミュニケーション法)」は、認知症の問題行動を最小限の混乱(被害)の枠内にとどめるために行う対症療法的なテクニックではなく、アメリカ人のソーシャルワーカーであるナオミ・フェイルが、長年の臨床経験と仮説から生み出された実践的なテクニックです。
また、従来、セラピーの専門家が行ってきた「冷静かつ客観的に患者を評価し、不足している部分を補い修正する」観察・分析手法ではなく、「バリデーション」ではお互いが対等な人間として共に感動し、怒りや悲しみを癒そうとする「共感者」をめざすといいます。
認知症に対するナオミ・フェイルの仮説を要約すると、私たち人間が人生の異なった段階を生きていくときに、それぞれの段階で解決しなければならない「人生の課題」があると仮定して、人によってはその問題を解決しないまま人生の最後を迎えることがある。そのような人は人生の最終章に、「四つの解決のステージ」、つまり①認知の混乱、②日時、季節の混乱、③繰り返し動作、④植物状態、それぞれの解決ステージを迎えるというものです。
また、八項目の「バリデーションの原則」の中には、重要な四項目のポイントが含まれています。
○ お年寄りの混乱した行動の裏には、必ず理由がある。
○ お年寄りの行動は単に脳の構造上の機能的変化だけでなく、加齢によって長い人生の中で起こる身体的、社会的そして精神・心理的変化を反映する。
○ 人はその人生の中で、さまざまな課題に突き当りながら生きている。その課題を十分に解決できずに過ごしてきて、不幸にして高齢期に認知症になったとき、そのことが心の中でやり残した課題として深く残っていて、それが問題行動として浮かび上がってくる。
○ 共感と受容は信頼を築き、心配を減らし、尊厳をとり戻す。認知症の人の状況を本当に、心から理解すれば、その人に対する介護の心構えが強くなる。
ナオミ・フェイルが、認知症の母親マーガレットと娘モリーに行った「バリデーション(認知症の人と心を通わせるためのコミュニケーション技法)」を理解するために、同書に収められた「マーガレットのケース」を要約して紹介しましょう。
介護施設で暮らす86歳になる認知症の女性、マーガレット・ドーリングは、先週尋ねてきた娘のモリー・ダンネが彼女の人形を取り上げてからというもの、毎日夕方四時になるとまるで変人のように振る舞うようになりました。ある日、施設のドアをすり抜けて脱走を試みますが、追いかけてきた看護助手のマイケルに腕をつかまれ、マーガレットは金切り声を上げます。
「行かせて!あなたが私の赤ちゃんをとりあげたのよ。彼女を見つけないといけないの」
さらに反抗的な態度に出たマーガレットはイスに縛りつけられ、それでも暴言を吐く彼女は、過度のハロペリドール(精神安定剤)を投与されて、ゾンビのようになってしまいました。
驚いて駆けつけたモリーは、「あなたのお母さんは、夕方の四時ごろになるとパニックに陥るようですが、なぜだかおわかりですか?」というナオミ・フェイルの質問に、「それは私たちが学校から戻ってくる時間でした。母はとても厳しい人でした。妹のベッティーを除いて、私たちの誰も、5分たりと遅れることは許されませんでした」と答えました。
翌日の4時、正気を取り戻したマーガレットでしたが、この日もやってきた娘のモリーを無視して(娘と判別不能)、ベッティーを探しに行かなければならないとしきりに訴えます。実はベッティーはもう立派に成長した女性で、現在はアラバマ州に住んでおり、すでに3人の子どももいるのですが……。
ナオミ・フェイルが「あなたはベッティーのことを心配しているの?彼女に何が起きるというの?」と聞くと、「彼女はこのひどい嵐の中、一人っきりで外にいるの」と不安げに答えました。マーガレットは心の目で「雪の中で迷っている“幼いベッティー”の姿」を見ているのでした。
さらに「バリデーション」を続けていくと、かつてマーガレットは妊娠9カ月目、危篤状態で生まれてきて、そしてわずか12時間しか生きられなかった男の子の話をしてから、腕の中に赤ちゃんがいるように抱きかかえ、やさしく歌い始めたのです。
そこで、「あなたはベッティーが安全でいてほしいのね。あなたは彼女がもう一人の赤ちゃんのように傷ついてほしくないのね」と聞くと、マーガレットは「私はベッティーが臨月で生まれてきた赤ちゃんのように傷ついてしまわないか心配なのです」と答え、たくさんの涙をこぼしました。
そのとき無言で母親を抱きしめたモリーの目に、ナオミ・フェイルは初めてモリーが母親の悲しみを理解したことを見ました。そして、先週マーガレットから取り上げた人形が、母親にとってモリーの妹、ベッティーが生まれる前に授かり、そして失った赤ちゃん(男の子)だったことを知ったのです。
ナオミ・フェイルは、この「マーガレットのケース」を次のように締めくくっています。
マーガレットは娘の名前を忘れてしまっているようでしたが、顔を思い出したようでした。86歳になるこの女性は、60秒という短い時間の中で、60年という彼女の人生を旅したのでした。
私の助けとともに、モリーは母親と時間を過ごすことを学びました。マーガレットは今だに、毎日4時になるとベッティーを探していますが、自分を助けてくれるモリーがそばにいて、彼女が必要な時、人形が側にあるのでした。
(『バリデーション』第 11章「日時、季節の混乱」にいる人とのコミュニケーション207
~208ページ)
マーガレットに対する娘のモリーのように、感情的な対応になりやすい家族のケアギバー(介護者)には、「認知症の人」が生きる最終ステージを「共に生きる」覚悟が求められます。
それと同時に、「認知症の人」が長い間、解決できずに積み残していた「人生の課題」が最後に解かれる瞬間を「共有できる」可能性もゼロではありません。
しかし、訳者の高橋誠一さん(東北福祉大学教授)は、認知症の人と「共に生きる」ことはなかなか難しいことであり、その理由は介護者自身の人生の課題でもあるからだと、次のように書いています。
この問題は答えがはっきりしている算数の問題を解くようにはいきません。なぜなら、問題の中に私たち自身が含まれているからです。それを解こうとしている自分を問題から切り離すことができないのです。結局、他人事のような解決は不可能なのです。ケアとはそもそもこのような性質をもったものなのだと思います。ケアをする人とケアを受ける人を分離することはできないのです。それでも無理をして分離しようとすると、ケアではなく仕事や作業として考えるしかありません。認知症の場合、ケアする人だけが主体となり、ケアを受ける人は対象となります。このような関係の中では、主体同士が共に生きるということは生まれないでしょう。
(『バリデーション』「訳者あとがき」315ページ)
☆「ケア(介護)」、「キュア(治療)」、「コントロール(制御・管理・支配する)」
高齢者の介護現場でときおり行われる「認知症の人」の「身体拘束」は、「縛らざるをえない」と「縛ってはいけない」の是非を問う、二者択一ではありません。
認知症の高齢者介護を「ケア(気にかけて世話をする)」ととらえるか、「コントロール(制御・管理・支配する)」ととらえるか、「認知症の人」を介護する姿勢の違いが重要なポイントとなります。
「ケア(介護)」「コントロール(制御)」「ケアギバー(介護者)」、それぞれの言葉のルーツ、微妙なニュアンスの違いについて、インターネットで検索した語源辞書などを手がかりに調べてみましょう。
「心配する、注意をする」を意味する「ケア(care)」は、古英語のカル(caru:心配・悲しみ)やラテン語のクーラ(cūra:配慮・治療)、クラーレ(curare:心配して世話をする)に由来し、同じ語源をもとに作られた、気遣いを意味するセキュア(secure:安全な)、インセキュア(insecure:不安な)や、手入れする意味のキュア(cure:治療)、マニキュア(manicure:爪に色を塗る)などに派生した。ちなみに「世話、介護、保護」など医療的・心理的援助を含むサービスを表す「キュア(cure:治療)」は、これもラテン語のクーラ(cūra)から派生した言葉で、現在では「医療的に世話をする」という意味で使われています。
次に、「制御・管理・支配する」を意味する「コントロール(control)」は、ラテン語で「車輪、巻いたもの」を意味するロール(rotulus)+「~に反対して、~と対照して」を意味するコントゥラ(contra)=コントゥラロールcontrarotulus(ロール紙を反対方向に巻き戻す。巻物に書かれた記録と照らし合わせる)という行為から、事態を常に管理統制しておくを意味するコントロール(control)という英語になったといいます。
「認知症の人」を世話する家族は「ケアギバー(caregiver:介護者)」ですが、それを職業(有資格者)として行う人は「ケアワーカー(care worker:介護福祉士)」と呼ばれます。漢字の「介」にはその原義である甲羅(鎧)から転じて、「身を守るもので、たすける」という意味が生じました。
英語のケア(care)の語源にはラテン語のクラーレ(curare:to take care of=気をつける)が、ギブ(give)の語源にはラテン語のドネール(donare:to give=無償で与える)と、ゲルマン語のギフト(gift:to be given=神に与えられた才能)という正反対(能動形と受身形)の意味があります。とくにプロではない介護者は、身体の清拭、オムツの取り替え、入浴介助、着替え介助など、生活全般の介助(援助)にかかわっています。
介護が必要とされる現場は、体力の衰えや加齢によって身体機能や認知機能が低下した人(多くは高齢者)が「いまここに、人間としての尊厳を保ちながら生きている現場」であり、その介護の現場が在宅であっても、介護施設であっても、疼痛緩和以外の治療をしないホスピスであっても、介護が目指す究極のゴールは「穏やかな死」に向けられている。「看(みる)」と「介(たすける)」の字を組み合わせた「看取り介護」という言葉がある。これは高齢者や病人(※病院では患者と呼ばれるが、在宅の療養では病人となる)の死を看取るターミナルケア(終末期介護)をいいます。
病状がかなり進行した病人、身体機能が著しく低下した高齢者、認知機能が著しく低下した「認知症の人」にとっては、さらにつらい苦しい「積極的治療(治癒)」を続けるより、たとえわずかでも苦しさから遠ざかることができる「消極的安楽(快適)」が感じられる見守り、つまり「何もしないケア」が求められています。
そして、「認知症の人」は「穏やかな死」に向って、「認知症の人」の人生を、きょうという1日、今という瞬間を「生きて」いる。「認知症の人」という、世界に一つだけの物語にやさしく寄り添いながら、その人の物語をいつか完成(完結)させるために、ケアギバー(介護者)は何ができるのでしょうか。
さきに紹介した『バリデーション』の著者で、アメリカのソーシャルワーカーである、ナオミ・フェイルは、人生の最終章にさしかかった「認知症の人」には、まだ解決しなければならない「人生の課題」が残っているという仮説を立て、そこから「バリデーションセラピー(超コミュニケーション法)」という実践的なテクニックを生み出しました。
ナオミ・フェイルには、「認知症の患者(ペイシェント:patient)」という意識はありません。「認知症の人(ピープル:people)」と呼んでいます。
たいていの場合、認知症という病名をつけられた「患者」は、狭義の意味での治療(キュア:cure)の対象となります。治療の主導権を握るのは医師であり、患者は医師の指示に従うよう求められます。patient(患者)の語源には、ギリシア語のパテイン(pathein:to suffer=苦しむ)があり、「患者」には注射や手術、薬剤投与など侵襲的(生体を傷つける)治療にじっと耐えるイメージがつきまといます。
ナオミ・フェイルの仮説では、「認知症の人」の混乱した行動の裏には必ず理由がある。その行動は単に脳の構造上の機能的変化だけでなく、加齢によって長い人生の中で起こる身体的、社会的そして精神・心理的変化を反映する。そして、共感と受容は信頼を築き、心配を減らし、尊厳をとり戻す。認知症の人の状況を心から理解すれば、その人に対する介護の心構えが強くなり、さまざまな改善が期待できるといいます。
☆「バリデーション・テクニック」には、解決に至る「四つのステージ」がある
たとえば、『バリデーション』第2章「バリデーションの概念とテクニック」(60~61ページ)に載っている「解決にいたる四つのステージの特徴」(お年寄りが若いころ、人生の中で成し遂げておかなければならない大切な課題を十分やり終えることができなかったとすると、そのお年寄りが「穏やかな死」を迎えるために、そのやり残した課題を解決しなければならないと感じるときがやってくる。その課題を解決するために知っておきたい四つのステージとその解決法)の解説から、重要なポイントを要約して紹介します。
第1段階「認知の混乱」
オリエンテーション(見当識) 時間感覚はほぼ保たれている。現実に対する認識は比較的保たれている。自分自身が混乱した状態にあることを自覚している。/★基本的介護の姿勢 Who、What、Where、Whenのような質問は使えるが、Whyは使用しないようにする。からだにふれるのは最小限にする。まだ保たれている部分も多いので、必要以上にその人の心に立ち入ったり、なれなれしくしすぎないように注意する。/■視線 目はくもりなく、はっきりしている。相手にはっきり焦点を合わせられ、アイコンタクトもしっかりできる。
第2段階「日時、季節の混乱」
オリエンテーション(見当識) 時間どおり行うことはできなくなる。実際にあったこと、名前、場所さえ忘れる。新しく名前を覚えることが難しくなる。/★基本的介護の姿勢 「感じる」という言葉を使う。たとえば、「あなたの気持ちがわかります」「あなたのさみしい気持ちは、よく理解できます」など。やさしくふれたり、アイコンタクトを使う。/■視線 瞳ははっきりしているが、焦点は合いにくくなる。伏し目がちでアイコンタクトが認識のきっかけになる。
第3段階「繰り返し動作」
オリエンテーション(見当識) ほとんど外界からの刺激を受けつけなくなる。本人独自の時間感覚になる。/★基本的介護の姿勢 やさしくふれたり、アイコンタクトを使う。ゆっくりと本人に合わせたペースを保つ。本人と同じような感情や行動をする(※ミラーリングMirroring:鏡に映っているように、心の動きや行動を本人と同じくし、本人の気持ちを理解する)。/■視線 目を閉じていることが多くなる。
第4段階「植物状態」
オリエンテーション(見当識) 家族、訪問者、古くからの友人、スタッフのことが判別できなくなる。時間の感覚がなくなる。/★基本的介護の姿勢 やさしくふれたり、髪を撫でたりといった感覚的刺激を用いる。音楽の理由は比較的有効である。/■視線 目はほとんど閉じている(顔はくもり、表情はなくなる)。ボーッとして焦点は合っていない。
※「解決にいたる四つのステージ」の表(マトリクス)には、上記項目のほかに「身体状態」「声の調子」「感情」「自己管理」「コミュニケーション」「知的機能」「ユーモア」がある。
この「解決にいたる四つのステージの特徴」を踏まえた上で、ケアギバー(家族介護者)、医療・介護施設のケアワーカー(介護福祉士、介護士)が行うべき十四種類のバリデーション・テクニックがあります。
①センタリング(Centering:「介護者自身の精神の統一、集中」には、約三分間が必要)
②事実に基づいた言葉を使う(「Why(なぜ)」の質問は避け、事実を聞く質問に集中する)
③リフレージング(Rephrasing:本人の言葉を繰り返して、本人の自信を取り戻させる)
④極端な表現を使う(最悪、最善の事態を想像させて、心配事をやわらげる手助けをする)
⑤反対のことを想像する(若いころに苦しみや困難から立ち直った方法を思い出させる)
⑥レミニシング(Reminiscing:「思い出話」をさせて、昔の記憶から解決方法を引き出す)
⑦真心をこめたアイコンタクトを保つ(精神を集中し、相手の目を心をこめて見つめる)
⑧曖昧な表現を使う(「それ」「彼ら」などで、意味のわからない言葉を置き換える)
⑨はっきりとした低い、優しい声で話す(思いやりをこめた口調は、ストレスを減らす)
⑩ミラーリング(Mirroring:鏡に映すように相手の動きや感情に合わせ、信頼感を築く)
⑪満たされていない人間的欲求と行動を結びつける(行動を人間的欲求の視点で見る)
⑫好きな感覚を用いる(昔の体験を考えたり、そのことを話してもらう)
⑬タッチング(Touching:「ふれる」ことで、楽しかった子どものころの記憶を呼び起こす)
⑭音楽を使う(言葉を失ったときでも、若いころよく歌ったメロディーが蘇る)
(『バリデーション』第2章「バリデーションの概念とテクニック」62~74ページの要約)
バリデーションで最初に行う、①の「センタリング(介護者自身の精神の統一、集中)」は、ヨーガのような呼吸法である。センタリングの主眼はあくまでも「精神の集中」に置かれ、補助的に「呼吸法」の力を用いて意識を変革(気分のリラックス)させる、つまり「精神の集中」によって「精神のリラックス」を達成しようとする、「頭脳知(brain work:頭で考える知恵)」主導のストレスマネジメントである。この「センタリング」は自分の呼吸に意識を集中させる、つまり意識を一時的に呼吸に振り向けて、ネガティブな感情(怒りやイライラ)を追い出すイメージ療法、催眠療法に近いものである。
ケアギバー(※介護者)は精神の集中を行うため、自分自身の呼吸に焦点を合わせ、できる限り「怒り」や「イライラ」を身体の中から追い出します。自分自身が「怒り」や「イライラ」から解放されることによって、コミュニケーションをとろうとする相手の気持ちを心から感じとることができます。共感と同意をもって聞くことができるようになるためには、自分の感情を完全に解き放つことが大切です。
ですから、すべてのバリデーションのセッションは、このセンタリングから始まります。センタリングには約3分が必要です。だんだん気分がよくなり、リラックスします。
(1) 下腹(ウエストから下5㎝)に神経を集中させます。
(2) 鼻からゆっくり息を吸い込み、身体を新鮮な空気で満たします。ゆっくり口から息を吐き出します。
(3) すべての息を止め、あなたの呼吸にすべての意識を集中させます。
(4) この手順を、ゆっくり8回繰り返します。
(『バリデーション』第2章「バリデーションのテクニック」62~63ページ)
私はかつて、西野流呼吸法の創始者、西野皓三さんから「足(そく)芯(しん)呼吸(足の裏から吸った息を頭のてっぺんまで吸い上げ、その息を丹田(下腹)まで降して収めて、ゆっくりと足の裏に吐き降ろす呼吸法)」など呼吸法の指導を受けていました。
西野さんは、「人間は勝手に生きている。心臓も胃腸も勝手に動いている。だから素晴らしい。人間にとって絶対的な真実はただひとつ、それは自分が今、生きているということだ。常識的な頭脳の知(知識としての知)だけでは、真の自己を活かすことはできない。人間の能力を最大限に活かして生きるには、いざというときに発揮される、からだのもつ潜在的な知、すなわち身体知(Physical Intelligence)が不可欠である」と話しておられました。
「身体知」が生き生きと発現するからだの獲得こそが、西野流呼吸法の大きな目標なのである。
バリデーション・テクニックで実践する「センタリング」では、精神の「集中」ばかりを意識し過ぎると、「からだ」がこわばり、「こころ」が固まってしまう。ぜひとも、そこに「からだをゆるめ、こころをほぐす――身体知の呼吸法」のエクササイズを加味してほしいものです。
☆「散らない花をきょうも生きる。
「認知症の人」という〈いのち〉の物語。
ナオミ・フェイルの提言をひと言で表現すると、「認知症の人を変えることはできない」が、家族である「自分」、つまり「介護者(Caregiver)自身を変えることはできる」ということである。相手(認知症の人)を「(自分が介護しやすいように)変える」のではなく、介護者である自分が「(認知症の人を理解し、真の介助ができるように)変わる」ことが求められます。
さきに「認知症の人」という、世界に一つだけの物語にやさしく寄り添いながら、その人の物語をいつか完成(完結)させるための「介護ケア」の方法が、この「バリデーション・テクニック」だと書きました。
たとえば、「認知症の人」が〈生きてきた・生きている・生きていく〉世界に1つだけの物語を桜の花(花びら)だとすると、〈生きてきた・生きている・生きていく〉「認知症の人のいのち」は、そのおおもとの桜の樹――毎年、春になると満開の桜が咲き競うが、やがて、その花びらは花吹雪となって舞い散る。しかし、翌春には、同じ桜の樹の枝から再び桜の蕾が膨らみ、あの美しい花を咲かせる――私たちは、もしかすると「認知症の人」を、そのおおもとの〈いのち〉である桜の大樹としてではなく、散りゆく桜の散りゆく「花びら(身体機能や認知機能が衰えた状態)」と見ることしかできていないのかもしれません。
2004年、東京大学で開催された公開シンポジウム『死の臨床と死生観』において、「人間は人生という物語を生きている」と問題提起したパネリストの一人、ノンフィクション作家の柳田邦男さんに、コーディネーターをつとめた倫理学者の竹内整一さんが、「こちらの世界の完成・完結ということと、あちらの世界への眼差しのようなものはどうつなげて考えているのか、いないのか」と質問したことを、『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』(竹内整一著、ちくま新書、2009年)に書いています。
佐野洋子さんの絵本『100万回生きたねこ』の死—―生の意味についての話と「色即是空」のイメージの話はきわめて示唆的でした。柳田さんは、こう言われました。
――自分は小さい時から「色即是空」という言葉がずっと気になって、その言葉にとらえられてきた、と。これは『般若心経』のなかの言葉で、死んであの世に行くのは漠然と、「空なる世界に戻っていくんだ」というようなものとして理解していたが、それがたとえば、この『100万回生きたねこ』の絵本を見ることによってある種の納得がえられた、というわけです。
『100万回生きたねこ』とは、ご存知の方も多いでしょうが、こういう話です。――ある雄ねこがいて、そのねこは100万回死んで100万回生き返ってきたと。ところがそれが、ある雌ねこを愛して、そしていっぱいの子どもをつくる。しかし、その雌ねこに死なれて泣きに泣いて、自分も泣き明かして結局死んでしまうが、今度は生き返らなかった、と。
絵本は最後、名もない野の花と草むらの自然のありふれた風景の場面で終わっているが、柳田さんは、その最後の風景が、自分にとっての「色即是空」のイメージに重なってとらえられたと言っていました。
(『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』第二章 死の臨床と死生観 42~43ページ)
柳田さんが『100万回生きたねこ』の最後の場面に感じたという「色即是空」のイメージに重ねて連想すれば、浄土真宗の僧侶であった、金子大榮(1881~1976)が、「色即是空、空即是色」をこう訳していたことが思い起こされます。
花びらは散る
花は散らない
ここで「空」とは岸本(※岸本英夫:宗教学者)の言い方に当てはめれば、「徹底した」「全面的」、「全体的」な「別れ」ということですが、それを解することにおいて、たとえ「花びらは散」ろうとも、散らない「花」が咲くということです。
(『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』第八章「さようなら」としての死 193ページ)
花びらは散る、花は散らない。
散らない花をきょうも生きる。
「認知症の人」がつたえる〈いのち〉の物語。
♣ エリザベス・キュブラー・ロスのことば 4
私が知りうる最も美しい人とは、もがき、苦しみ、敗北を知り、苦労が水の泡になっても、なお自分の力で道を切り拓いた人だ。彼らは繊細で、感謝を忘れない。その人生は、理解や親切心、愛情深さで溢れている。美しい人の存在は、偶然ではない。(The most beautiful people we have known are those who have known defeat, known suffering, known struggle, known loss, and have found their way out of the depths. These persons have an appreciation, a sensitivity, and an understanding of life that fills them with compassion, gentleness, and a deep loving concern. Beautiful people do not just happen.)



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