「私の名の愛とは何だろう」
「残しておきたい7人のコラム」から、村松静子さんの「起業家ナースのつぶやき」を紹介しています。今回は『恩師、国分アイ先生』です。

vol.33
恩師、国分アイ先生
2004-04-22
「国分さんはとても安らかに逝かれました。14日の夜、19時25分でしたかねえ。4時間前にいらした妹さんをわかったらしくて、表情が変わったと言っていました。良い顔をなさっておりました。村松さんは、もしかして、あのこけしの裏面に記されている村松静子さんではありませんか。富士夫さんと連名で……。やっぱりそうでしたか。国分さんはあのこけしをずっとそばに置かれていたのです」。先生は、洒落た名称の老人ホームで息を引き取られた。そこでの受持ちが門脇さん。その言葉に、胸が痛みました。30数年前、私の結婚記念に受け取っていただいた"木地山こけし"。それを、先生は老人ホームに入居される時にもお持ちくださったのだ。どんな思いでそばに置いてくださったのだろう。しばらくお会いしていなかった私は、ちょっと複雑な気持ちになった。「ホームの正面玄関に、国分さんから寄贈されたものが飾られていますので、一度ぜひいらしてみてください」。門脇さんの嬉しい言葉に、また胸を打たれた。
1920年に福島県でお生まれになった先生は、日本赤十字看護婦養成所を卒業と同時に戦地へ向かい、傷病兵の方たちを敵味方分け隔てなく看護した。「ロマンと感傷の中で、美しく輝く南十字星を見たのよ」と、お話くださったこともある。そんなロマンチックな一面をお持ちの先生は、看護の道を選んだ私にとって、いろいろな意味で、常に教え導く大きな人であった。72歳になった先生は多発性骨髄腫と共生しながら、放送大学を5年で卒業。その後も、病と共生しながら、フランス刺繍、ケーキづくりと何事にも研究心が旺盛だった。
私が先生に出会ったのは、日本赤十字中央女子短期大学で臨床指導をなさっている時だった。話すことが苦手で、不器用な私は、何かと先生の手を焼かせた。「あなたのシーツのたたみ方ではね、足元の側が顔の付近にくるでしょ? それじゃあ、皆さん、お嫌よねえ。逆さにならないようにするには、こうするといいのよ」と丁寧に教えてくださった。しかし、なかなか思うようにならない。それでも、「あなたはお話があまり得意じゃないけれど、優しいのよねえ」と、褒め言葉を必ず添えてくださった。何よりも、先生はすごい人だ、あのような看護婦になりたい、と思った場面があった。ある日、実習病室を回っていると、カーテンをかき分けるように患者さんが皆顔を出す。そしてどの人も言った。「国分先生はまだ来ないの?」「今日は来るよね?」「あの先生の顔を見るとホッとするんだよ」。それらの言葉に、私は無性にうれしくなっていた。傷病兵たちがナイチンゲールの姿を待ち焦がれている、そんな状況と重なって映ったのを覚えている。 先生はその後、教務部長を経て看護婦長、さらには副看護部長を歴任した。卒業後一スタッフとして一緒に勤務したこともあった。その時のことである。婦長としてのご自分の考えを示されない婦長、つまり、先生に向かって、私は言ったことがある。「臨床指導者の先生は大好きですが、婦長の先生は嫌いです」。小さな子どもを抱え、気持ち的に余裕がもてないでいた私の吐いた言葉だったが、先生は、私が言ったこの言葉を、いつまでも覚えていた。「私はあなたに言われたのよねえ、ショックだったわ」。ここ数年前にも、その話題に花が咲いた。
先生はその後も、自治医科大学付属高等看護学校、杏林大学医学部付属看護専門学校、埼玉県立衛生短期大学、日本赤十字愛知短期大学で教鞭をとり、一貫して、自ら体験した胃癌の手術、腰椎圧迫骨折、肋骨骨折、胆のう摘出など怪我や病気を生かした看護実践にこだわりながら教育に携わった。赤十字を離れ新しい職場に移った先生は、赤十字という古巣を愛し、思いつつ、いろいろなことを考えられたようである。「日本でも比較的古い歴史を有する病院での、看護の技術史のようなものの編纂を試みてはどうであろうか。苦しむ病人に立ち向かった先人のひたむきな思いが、何らかの形として受けつがれ、その中には、理論的にも実証できる立派な技術があるのではなかろうか。看護と教育の共有、これこそが私の天職と、私はこの職責を定年の日まで続けても良いと満足しきっていた」と、自伝に記している。
私は若い頃、先生の語らいから学ぶことが多かった。こんなことを聞いたこともある。 「夜勤婦長だった十二さんがね、洗面器に、熱いお湯とタオルを用意させたの。そして手術後辛い思いをしていた私の身体を拭いてくれたのよ。私はなされるまま横に向けられ、背中から腰にかけては、当時、米軍支給の大ぶりの柔らかい羽根枕がさし込まれ、支えられて、首筋から肩は熱い蒸しタオルとバスタオルで覆われたの。彼女の指先が軽く肩を揉んでいる。ああ楽だ、気持ちいい……と思う間もなく私は眠りに入ってしまったの。彼女が何時病室を去ったかも気づかなかったのよ。ふと、目が覚めると、朝の光が眩しく目に飛び込んできた。何ともいえない爽やかな朝の目覚めだったのよ。あれほど苦しかったのに、私は何時の間にか眠ってしまったの」。その時のことを、先生は自伝の中で、次のように表現している。「なんという素晴らしいケアであろうか。これが本当の看護なのだ。私は、同室、同級生、十二婦長の深夜の看護処置に驚嘆し感動していた。患者の痛み、苦痛の緩和には注射薬を使わない看護のわざがあるのだ。この感動が私の看護に大きな気づきを与えてくれた。この時が私の看護婦としての再生の朝でもあった。彼女への感謝の思いは私の中で今もつきないのである」と。
昨年の12月、先生から荷物が届いた。それには次のようなメッセージが添えられていた。真心がつまった大好物のアップルパイを、私はよく味わっていただいた。美味しかった!
村松静子様 久しぶりにアップルパイを焼きました。職場の皆さんの分は無理ですので、ご家族でめしあがって下さい。 敗者復活というところです。何とか生きております。お元気でご活躍の程を 國分 拝 2003.12月7日 |
先生のコラムを読み返していると、涙がこみ上げてくる。
私の名の愛とは何だろう。今思う。愛とは他者に対する善意の限りない関心ではなかろうか。無関心、無責任、利害打算に真の愛は成り立たない。愛は暖かく優しく何よりも真実の行為である。時に深く、広く、大きくありたい。看護における愛とは、それに、知的関心、プロとしての責任を伴うものと思う。そう言えば、ナイチンゲールも3つの関心と言っていた。「症例に対する理性的な関心。病人に対するもっと強い心のこもった関心。病人の世話と治療に対する技術的な関心」と・・・・・・。(国分アイ)

偉大な先生にお会いできたことに感謝するとともに、「看護とは」を全身全霊で教え、伝え、残してくださった先生に約束させていただきます。先生からお教えいただいた看護の姿を、私なりに本物にして、後輩たちに伝えていくことを。
先生、ありがとうございました。いつまでも見守っていてくださいね。



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