旬の過ぎたはなし-「ノーベル賞」
「残しておきたい7人のコラム」から、安藤武士さんの「医師として、武士として」を紹介します。今回は『旬の過ぎたはなし-「ノーベル賞」』です。

vol.10
旬の過ぎたはなし-「ノーベル賞」
2003-4-28
コラムにも「旬」がある。そう言いなながら「旬」の過ぎた話をする。「ノーベル賞」にまつわる話である。「ノーベル賞」についてどなたもご存知と思うが、小生が知るところを、少々、披瀝させていただく。
19世紀後半、富を築いたスウェーデン人のアルフレッド ノーベル(1833~1896)の遺言により、国籍を問わず人類に貢献した人に授与される「賞」である。物理学賞、化学賞、医学・生理学賞、平和賞、文学賞、経済賞がある。物理学賞、化学賞、経済賞はスウェーデン王立科学アカデミー、生理・医学賞はストックホルムにあるカロリンスカ研究所、文学賞はスウェーデン・アカデミー、平和賞は、ノルウエーの国会で選出される。毎年10月に受賞者が発表され、ノーベルの命日である12月10日にストックホルムで受賞式が行われる。平和賞はノルウエーのオスロで行われる。
1901年、最初の「賞」が5部門6人に贈られたが、そのなかで、今でも良く知られている人はX線を発見した功績により物理学賞を受与されたW.K.レントゲン(ドイツ)と、国際赤十字社を創設した平和賞のアンリー ジュナン(スイス)である。経済賞は1969年にできた。昨年(2002年)までの受賞者は、705人、19団体(延べ)である。日本人は12名で、最初の受賞者は1949年、物理学賞の湯川秀樹氏、昨年は物理学賞に小柴昌俊氏、化学賞に田中耕一氏が受賞されたことは記憶に新しい。
4月10日、小生は、「生体巨大分子を量る」という講演を約10倍の難関を突破し拝聴する機会を得た。講師は、ノーベル賞、受賞者の田中耕一氏である。受賞の対象となった業績、「生体高分子の同定および構造解析のための手法の開発(ソフトレーザー脱離イオン化法)」の講演であった。「賞」の対象となった業績内容を一般市民に講演するのは今回が初めてであると言っておられたが、そのためか、聴衆には若干難しかったようである。現在、病気の早期診断に応用するため努力をされておられるとのことで、小生は楽しく聞くことができた。
小柴昌俊氏の受賞も喜ばしいことである。氏の業績はメディアによる詳細な解説、対談などを通じ理解している積もりである。難しい素粒子論を一般市民にもわかりやすく説明されるお力は講義、学会、各方面との交渉で培われたためであろう。
田中耕一氏の講演会を主催した団体代表のお一人が挨拶で述べていた。「お二人の業績で共通していることは、対象は異なるが『物の測定』に関することである」と言う。小柴氏はニュートリノの捕捉、田中氏は蛋白質(巨大分子)の重量測定である。ともに日本の中小企業でしかできない技術が応用されているとのことである。今回の受賞は、日本の科学者の知識と中小企業のもつ卓越した技術がもたらしたことを強調されていた。挨拶された人は、日本分析機器工業会の会長である。日本の中小企業界に対するノーベル賞でもあったようだ。
以上、ノーベル賞について小生の知るところを披露したが、今回のコラムは、小生が研究室にいたころ経験したささやかな話を記すことが目的である。
1976、7年頃の話である。研究室で先輩と雑談をしていた時、先輩が「研究会にフォルスマンという方が参加するので、これから迎えに行く」と言って席を離れようとした。小生が、「ドイツの方ですか」と尋ねたら、「そう」と返事をされた。「ドイツのフォルスマンという名前を聞くと、小生が関係する仕事の分野のフォルスマンを思い出す。その方は、アメリカ人のクールナンが心臓カテーテル検査法の開発でノーベル賞を授与された時一緒に受賞した人で、若い頃、自分の腕に細い管をいれレントゲン検査室まで歩いて行き、心臓に到達していることを確認したが、病院から変人扱いされ寒村で開業せざるを得なくなった。後年、ノーベル賞の受賞の知らせを聞いたとき本人が一番驚いたそうです」と、意味のない話をした。1956年のノーベル医学・生理学賞にまつわる話であるから、当然、二人は別人である。
数日後、先の先輩にあった。「例のフォルスマンの話だけど、本人に聞いたら父親のことだと言ってとても喜んだよ。兄弟が多かったこと、生活は貧窮を極めたことなど話が弾んだ。有り難う」と言われた。ただ、それだけの話である。それ以来、なぜかノーベル賞が身近になった。
ノーベル賞は、「新しい分野を開拓・大成し人類に貢献した人に贈る賞」であることは周知のことであるが、田中耕一氏、フォルスマン氏のように新しい分野を拓く切っ掛けを作った人を草の根も分けて探し出しその功績を称えるという「賞」は、やはり人類最高の「賞」である。つけ加えると、第一回の平和賞を受賞したアンリージュナンは35歳の時、事業に失敗し行えがわからなくなっていたが、老年、ジュネーブ郊外の養老院で「受賞」の知らせを聞いたと言う。67歳であった。
「旬」の過ぎた話であった。田中耕一氏の講演が、ノーベル賞のこと、研究室時代のことを思い出させた。小生も、昔、何かやったはずである。びっくりする知らせが来るかな。

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